今回の内容は私の個人的体験に基づくものであって各人で異なるものであることを最初にお伝えしたい。


瞑想をしていると時に高次の意識(より大きな意識)と繋がることがある。同調する又は合体すると言ってもよい。すると大量の知識が入ってくる。思い出したという方が正しいだろう。

その知識はかつて自らが保持していたものである。その時身体の内から愛のエネルギーが溢れ出て全身を包む。私は無上の喜びの中で自分自身が何者であるかを知る。


高次意識との同調(合体)は誰にでも起こり得る。レベル1の人間がいきなりレベル10になることもある(*1)。だが三次元物質界で暮らしていると再びレベル1に戻ってしまう。その状態は長続きしない。

しかしレベル10を体験したことは大きな財産となる。その体験は時が経とうが自身の中で永遠の宝物として存在し続ける。“知った”のである(*2)。


レベルは上がったり下がったりしながら少しずつ上がっていく。ゆっくりとレベルを上げていけばよい。もちろん体験によって。
体験こそがすべてだ。いくら知識を蓄えても一度の体験に遠く及ばない。知識は体験を伴ってこそ意味を持つものである。そして体験はいつも同調から始まる。


三次元物質界(低次の世界)で生活しているとレベル10の自分を忘れてしまう。だがその時の感覚だけは忘れない。その感覚こそが求める答である。その感覚を求め自身のレベルを上げていく。自身のレベルが2、3、4、5と上がっていくとそれに応じて様々な体験をしていく。体験を積み重ねていくことが大切だ。体験はレベルに連動して世界を見る視点を変えていく。より高く俯瞰するようになる。こうして三次元物質界でも揺れない自分がつくられる。

前にも述べたが高次の意識と同調・合体したとしても私は私である。 “私”が吸収されて消えてしまうことはない。今度は“私”が“大きな意識”そのものになる。何故か? それは“私”と“大きな意識”が全く同じものであるからだ。決して異質のものが混ざり合うのではない。一つだったものが再び一つになるのだ。


また私は自らの意識を分離させて自身が創造した世界を好奇心の赴くままに探索していると申し上げた。そしてこれは創造主が物質世界を創造し自らその世界の未知を求めて探索しているのと同じであると。

このような神の真似事体験であっても実際にそれを体験してみることには意味がある。絵画の街を実物化することも然りである。


パラレルワールドを訪れるときもそうだ。私はパラレルワールドを訪れる度に非常に面白い体験をする。その世界へ足を踏み入れた途端、私の記憶や思考がすべて入れ替わってしまう。それまでの私の記憶や思考はすべて消え去り、私はパラレルワールドの住人の記憶と思考を持つ全くの別人格になる(*3)。だが別人格になったとしても私は私である。自分自身を唯一の“私”と思う気持ちに変わりはない。


感情や思考、そして記憶もが私という“意識”の「服」なのである。別人格になるのは単に服を着替えるのと同じなのだ。三次元物質界では“私”という“意識”が肉体、感情体、精神体と言った服を、つまり三次元探索用スーツを身に纏っているのである。


私たちは神(創造主)から分離して三次元物質界という二元性の世界で神(創造主)と異なる振動(波動)状態を体験しているに過ぎない。私たちと神(創造主)は振動が違うだけで元は一つの“意識”である。この異なる振動体験が分離のゲームと呼ばれるものだ。しかし今、分離のゲームは終わり統合のゲームへと変わった。私たちは再び神(創造主)の下へ帰還するのである。ゲームのために下げた振動数を再び上げるのである。これがアセンションだ。


大海を蒸発した水が雨粒となって陸地に降り注ぎ大地を削る。水は大地から様々な栄養分を溶かしこれを携えて動植物を始め、あらゆる生命体を巡り生命を育む。こうして水は長い旅を終えて海へと帰っていく。そして再び大海の一部となる。私たちは雨粒なのだ。


私たちは肉体、感情体、精神体といった服を纏って神と異なる振動体験をしているだけなのである。善もなければ悪もない。それは単に纏っている服の違いに過ぎない。私たちは地上に生れ落ち自分専用の探索スーツをつくっていく。そして各人がそれぞれのスーツを纏ってそれぞれの探索をしているのである。どんな悪人であろうが皆同じだ。


だが遠くへ出かければ(神(愛)から遠く離れれば)道に迷い、帰り道がわからなくなることもある。時にはカルマの精算も必要になるだろう。だがそれが波動の世界だ。


以前、私は「人は皆、神の子である」と申し上げた。だがより正確な表現をすれば神の子ではなく神である。神そのものである。これは上記のような体験を繰り返す中で実感することである。ただ私たち(の多く)は神であることを忘れてしまっている。そして今、それを思い出す旅に出たのだ。


(*1)ここで言うレベルは絶対的なものではなく相対的なものである。各人で異なる。各人が体験した最高のものを便宜的にレベル10としている。そしていつかその上にもレベルがあることを知る。それは新たな目標となる。
(*2)言葉では決して“知る”ことはできない。言葉は信念を築くだけで知ることはできないのである。
(*3)おそらくパラレルワールドへ足を踏み入れた時に私の意識が分離する。