意識についてはいろいろな意味があると思うがここでいう「意識」は本当の「私」のことである。原初の「私」、もしくは裸の「私」と言ってもよい。三次元物質界においては「私」が肉体、感情、思考、記憶といった「服」を纏っている。自我として現れている「意識」はこれらのフィルターを通して発現したものである。


私が「意識」について興味を持ち始めたのは20数年前に遡る。当時、私は頻繁に体外離脱をしていた。私はもともと離脱しやすい体質であったがそれを決定づけたのがクンダリニーであった。クンダリニーが覚醒するとスシュムナーを上昇してきたクンダリニーエネルギーが私を肉体から離脱させた。「意識」の本体は松果体付近に存在している。ここはまさにクンダリニーエネルギーが頭頂へ向かうルート上であった。クンダリニーエネルギーが「私」を引き連れて頭頂から抜けるのである。

クンダリニーは頻繁に覚醒した。そして私はいつしかクンダリニーエネルギーに依らずともわずかなエネルギー上昇で簡単に離脱するようになった。私はクンダリニーの覚醒時だけでなく瞑想時にもほぼ100%離脱した。


離脱した私は異次元世界へ向かう。少し本題から外れるが異次元世界へ向かう過程は多岐にわたった。だが次の二つのパターンが多かった。一つは離脱後直接、光のチューブの中を高速移動して異次元世界へいくパターン、そしてもう一つがこの物質界へ一旦出てから異次元世界へいくパターンであった。その中でも特に多かったのが頭頂から抜け出た後に2メートルくらい上昇しそこで一旦停止した後、落下するように下に向かって移動するというものだった。

下に向かって落ち始めるとすぐに私の周囲は水の世界に変わった。透明で冷たそうな水の中を私はどこまでも落ちていく。しばらくして水底に到着するがそこはなぜかコンクリートや石などでつくられた人工的な古めかしい構造物があった。そして横に延びる大きなトンネルがあり、その中を進むと物質界のような世界が現れるのであった。


私は離脱時にいろいろ試したいことがあった。体外離脱から肉体に帰還して体験を思い返した時、いろいろな疑問が湧いてくる。その疑問の答えを次回の離脱時に見つけたいと思った。だがいざその時がやってくるとそれまであった思考はすべて私の意識から消えた。これは何度やっても同じだった。消えてしまうのはそれまで抱いていた思考だけではなかった。人間的な感情もなくなっていた。人間界で築き蓄えてきたものがすべて消えていた。その時私を動かしているのは目の前にある景色が生み出す好奇心であった。


私の体験は体外離脱の第一人者であるロバート・A・モンロー氏の体験とは全く異なっていた。モンロー氏はテーマを持って離脱し成果を上げてきたのに私は何一つ成果を得られなかった。それとモンロー氏は離脱時の体験が記憶に残らないと言っていたが私はすべてを明確に覚えていた(*1)。
 

「意識」についてもう一つ考えさせられた体験がある。私の記憶や思考がすっかり入れ替わってしまう体験だ。これが実際に存在することを確信したのはまだ最近のことである。なぜならば私が仮に別人格になったとしてもそれが“私”であるからだ。私はその“私”に何ら疑問を抱かない。“私”はその世界における人生の記憶を持ち、唯一の存在であるからだ。それにこちらの世界の私のことなどその存在すら知らないのである。


私は自身がつくる粒子の渦巻がワームホールであることを知っている。この渦巻の孔は異次元世界へ通じている。孔の先にあるのはパラレルワールドだ(おそらく)。私は何度も孔を通って異次元世界(パラレルワールド)を訪れた。するとその時非常に面白い体験をする。その世界へ足を踏み入れた途端、私の記憶や思考がすべて入れ替わってしまうのだ。私はその世界の住人(おそらくパラレルワールドの私だ)そのものになる。こちらの世界で生きた私の記憶や思考は完全に消え失せる。その時、私の記憶にあるのはその世界で過ごしてきた私?の人生の記憶であった。


感情や思考、そして記憶もが「意識」の「服」なのである。裸の「私」は服をいろいろと変えることができる。服を着替えると私は全くの別人になるのである。
肉体や感情体、精神体に「意識」は存在しない。肉体、感情体、精神体といった服(身体)は物質界で生きていくために装備されたものだ。三次元の幻想を体験するための装備である。
そしてこの原初の「私」は振動する意識体である。振動状態によって訪れる世界、創造する世界が異なる。これは次元の違いと言ってもよい。振動が高まれば高まるほどマインドは力を増す。純粋な「愛」に近づくからだ。
(*1)感情体離脱は記憶に残りにくい。私の離脱は少なくとも感情体離脱ではない。