私は日々、プラーナを見たり感じたりしながら生きている。プラーナは私にとって、もはや空気のように当たり前のもので意識することはない。必然的にプラーナに関係した体験は多く、プラーナについていろいろ分かってきた。今日は(現時点であるが)プラーナについての私の考えを述べたい。断定的表現を用いているがあくまで今の私の考えであることをお断りしておく。


プラーナを一言で言えば、それは神の意識である。プラーナ粒子は神の意識が転化した粒子であり、次元を超越し、有形無形を問わず、すべてのものの根源を成すものである。
プラーナ(粒子)はその振動の度合いによって様々なエネルギー場を形成する。最高次のものは愛である。物質界では主に生命力(エネルギー)として働く。また振動を落としたプラーナ粒子は集合して物質を形成する原料となる(三次元ホログラムを形成する)。


ハトホルの書(トム・ケニオン&ヴァージニア・エッセン著/ナチュラルスピリット)によればプラーナは広大な植物繁茂域や水流域で増強するという。つまり、これらの場所で粒子が活性化する(振動数が増す)。プラーナ粒子は激しく振動すると発光し白く輝く。これが生命エネルギーとしてのプラーナである。
活性化したプラーナはまさに生命エネルギーそのものである。神の意識を宿したエネルギーである。それが物質(又は物体)の中に入ると生命として機能し始める。生命体が生命体たりうるのは(活性化した)プラーナの力である。プラーナがなければそれはただの物質や物体に過ぎない。物質や物体は極限?まで振動数を落としたプラーナである。


プラーナは人間の意識や感情とも容易に共振する。これによってプラーナ粒子の振動も変化する。共振現象が起こるのはプラーナ粒子の本質が神(の振動)であり我われも同じだからである。よってネガティブな感情では振動は鈍り、喜びの感情では活性化する。プラーナ粒子の共振を利用すれば意識によって物質の創造・改変も容易である。

さて、プラーナ粒子はいろいろな姿を見せてくれるが、白く発光している状態はプラーナであること、そして粒子であることを実感する。この粒子のサイズは全くわからない。素粒子レベルかもしれないし、それより小さいかもしれない。ひょっとしたらずっと大きいかもしれない。肉眼で見ているわけではないので見当がつかない。確かにアジナーチャクラのスクリーンで次のような光景を見ると粒子は大きそうに見えるがスクリーンに現れた物体が実物サイズとは限らない。


例1)
「(アジナーチャクラに浮かぶ)コンクリートブロックの壁をよく見ると小さな穴があった。その穴は揺れ動きながらみるみる大きくなっていった。穴が大きくなるとき穴の周囲が振動しながら小さな茶色の粒子に転換した。そして茶色の粒子は振動しながら土になった。」
例2)
「暗闇の中に実物と見紛うばかりのクリアな花が浮かんでいる。その花を見ていると徐々に粒子へと変化し渦巻を形成した。やはり花と渦巻はチャクラであった。」
※上記2例は壁→粒子、花→粒子と物体から粒子へ転換したが、この逆のパターンも何度も見ている。

発光するプラーナ粒子は目を閉じたときに見ることができる。それは夜空に輝く星々のように漆黒の空間を埋め尽くすように存在している。一方、発光していない粒子は意識又は無意識によってアジナーチャクラに壁や立体スクリーンを形成する(但し、これは私の場合であるが)。粒子は意識と共振し自在に形を変える。例えば次のようなものである。


例)
「アジナーチャクラに直径7,8センチのドーナツ状物体が現れた。細かい粒子で構成され回転している。見た目は完全なドーナツである。もっと大きくしてみようと意識するとみるみるうちに直径20センチ、厚さ10センチくらいの回転する円柱になった。」
※サイズはもちろん、見た目のサイズであるので実際の大きさではない。

私はプラーナ粒子をすべてアジナーチャクラで見ている。チャクラはしばしば花にたとえられるが、アジナーチャクラで見るそれは実物の“花”そのものである。これがイメージ映像なのか本当に花なのかはわからない。ただ多くの人が花を見ているので本当に花なのかもしれない。というわけで私の見ているプラーナ粒子が私だけのイメージ映像というわけではないと思う。
それは次のようなケースでも同じだろう。
「アジナーチャクラに無色透明で中央に穴の空いた凸レンズ状のトーラス構造をした物体が現れた。それは質感、形状共に非常に美しかった。このレンズ状物体は無数の白く輝く粒子で満たされていた。白く輝く粒子は高振動のプラーナ粒子で間違いないだろう。では凸レンズ物体は何であろう。私は直感でこれこそ宇宙の姿であると感じた。」
おそらく宇宙空間にはプラーナが満ちているに違いない。