明け方、瞼の裏に浮かぶ粒子の渦巻を見ていると久しぶりに夢見術(*1)をやってみようと思った。焦点を渦巻よりやや遠方に移し映像が現れるのを待った。さほど時間を置かず映像が現れた。やはり現れる映像はランダムで何が現れるかわからない。意識を映像に集中すると消えてしまうので私は浮かんでは消える映像をぼんやり眺めていた。すると幾つか発見があった。

映像は基本、真っ暗な立体空間の中に現れるが空間全体ではなく空間の一部でちょうど空間に写真が浮かんでいような感じで現れる。写真のように四角く縁取られた平面空間に映像が現れる。映像は最初のうち薄暗く何かが動いているのがやっとわかる程度であるが徐々に明るくなっていきモノクロの映像が現れる。そしてそれに色が付いていきカラー映像になる。カラー映像に変わっても相変わらず四角い縁取りのスクリーン映像のままである(映像の枠は大小があり大きい時は枠があることを気づかないことがある)。


夢見術はこの映像の中に入り込むのであるが非常に難しい。滅多に成功しない。過去の成功事例はすべて偶然によるものであった。だが不思議なことに今日は映像の中に簡単に入り込むことができた。何かコツがあるのだろうと思ったが今日は単に入ろうと意識しただけだった。それで入れた。そういえば最近私は瞼の裏の空間に浮かぶ渦巻や幾何学模様に簡単に自身を移動させることができるようになった。これが理由だろうか。


映像の種類はその明るさやカラーなどでいろいろなレベルがあるがどのレベルのものであっても入り込むのは可能だった。だが入り込んだ世界はこれまでの夢見術におけるものとは異なっていた。その世界は夢見術の世界と言うよりも夢の世界に近かった。訪れた世界が完成されていないばかりか私自身も純粋な状態では存在していなかった(雑念があった)。
私は未完成の世界を完成させようとしたができなかった。理由はその時の私の意識レベルが低いからに違いなかった。まだ創り上げるだけの意識レベルに達していなかったのである。だから訪れた世界も夢に近かったのだ。最近、私は体外離脱と夢のハイブリッドの体験(*2)が増えているがこれはこうしたことが原因であった。


今日、私はいろいろな世界へ行ったがどれも夢見術としては不完全なものだった。街を訪れた時、周囲のすべてが未完成だった。私は車に乗って移動していたが周囲の建物は実写をアニメ化したようにすべてが高層ビルの壁面ガラスを曇らせたような鈍い光沢の板で埋め尽くされていた。本屋さんを訪れた時もそうだった。店内通路と本棚は確認できるがそこに並んでいるはずの本は確認できない。よく漫画で主人公の背景をある程度省略して描くことがあるがちょうどこの感じだった。

私は自分が世界を創り上げるだけの意識レベルに達していなかったといったが原因は欲だろう。執着と言ってもよい。久しぶりに夢見術を体験したい、自ら創造した世界を探検したいという強い気持ちが欲になったに違いない。何事も意識しすぎるのはよくない。それは知らず知らずのうちに執着を生む。いい教訓になった。
完全な夢見術は心が無になっていないとだめだ。その時私を動かしているのは好奇心だ。執着が一切消えた好奇心が世界を創り出すのである。

(*1)夢見術は自身が意識してアジナーチャクラの映像の中に入っていき自らの意志でその世界を造り変えて自らの意志でその世界の探索を行うものである。アジナーチャクラの映像には意識することなく知らないうちに入り込んでいる場合が多い。この場合は知らないうちにその世界を探索したり、時に創り直したりしている。これも夢見術の一つであるが不完全な夢見術である。
(*2)「夢と体外離脱と現実」参照