最近、壁をほとんど見なくなった。

 

壁というのは五次元の壁(四次元と五次元を隔てている壁)である。

壁は朝、目覚めると必ず目の前にあった。私にとって一日の最初に目にするものが壁であった。

 

この壁は数年前から現れるようになり、その後、それは毎日現れるようになった。ところが昨年の途中あたりからあまり見かけなくなった。壁に対して特に興味もなかったので見なくなった理由を探ろうとは思わなかった。

 

そんな折、昨年の11月にこの壁が崩壊している様子を目にした。壁のあちこちから勢いよく煙が立ち上っていたのである。煙は壁が分解したものである。

 

このことから私は壁が消滅してしまったのではないかと思ったがその後、稀ではあるが壁を目にしていたのでまだ存在しているようである。

だが、最近見る壁は以前とは大きく違っている。壁は明らかに薄く、そして脆くなっている。簡単に孔が開く。

 

孔はもはや渦巻によって開けるものではなくなった。以前の壁は分厚く強固であった。私は壁の上にプラーナ粒子で渦巻を創り、これをドリルのようにして壁に孔を開けた。
最近の壁は意識を向けただけですぐに孔が開く。しかも孔の大きさも自在である。壁のどこに意識を向けても簡単に孔が開く。しかしながら意識を外すとその途端閉じてしまう。ということで一応、まだ壁としての機能は果たしている。

 


ところでこの壁であるが、もちろん本当の壁があるわけではない。壁のような障害物として視覚化?され、二つの異なる次元を隔てている。それはすべて自分自身の波長に関係している。壁の波長、つまり五次元の波長と自身の波長が一致しているか、もしくはそれよりも短ければ(振動数が高ければ)何の抵抗なく壁を抜けられる。だが波長が長いと壁を抜けることができない。


私は自身の波長に関しては何もしていない。すべてを自然の流れに委ねている私は、おそらく明け方の極めてリラックスした状態においては地球の波長と同調している。つまり地球の波動が五次元の波動ともうすぐ一致するところまで来ているということだ。

この壁もいずれ四次元の壁のように消えてなくなるだろう。

少し厳しいことを言うようだが

 

「自分で蒔いた種は自分で刈り取る。」

 

これは波動の世界において原則である。
だが物は考えようでこれを厳しいと思うかはその人次第である。気持ちの持ち方(意識の焦点の当て方)でどうにでもなるのが波動の良いところである。

 


「自分で蒔いた種は自分で刈り取る。」これは私が六十八年生きてきた今、痛切に実感していることである。
この言葉は主にネガティブな意味で用いられるが当然、ポジティブなことに対しても当てはまる。ポジティブな収穫を目標とするのが願望実現の方法や引き寄せの法則である。


人類は昔から権力者たちによって恐怖を植え付けられてきた。そのための社会構造が構築されており、現在も有効に機能している。だから人々は生まれた時から自然と恐怖を創造するためのマインドを育てている。これによって大人になるころにはほとんどの人がネガティブ創造のマスターになっている。


こうしたことから必然的に多くの人が生まれて以来、ネガティブな種を蒔き続けている。ネガティブな思考から生まれたネガティブな感情が感情体に種として植えられる。


感情体に植え込まれた負の種は肉体が滅びても生き続ける。来世に引き継がれる。人は今の自分だけでなく過去世の自分の蒔いた種に対しても面倒を見なければならない。これがカルマである。

 


波動の世界ではすべてが自分中心に動く。別の言い方をすれば自分が中心になるようにできている。それ以外ありえないのである。

今の自分、今の世界を変えるのは自分であり自分しかいない。もし今の自分、今の世界を変えたいのなら自分が変わることだ。他人は変えてくれない。そもそも自分を変えることができなければ他人を変えることなどできない。“誰かがいつか困っている私に気づいてそんな私を善意で助けてくれる。”そんな淡い期待を抱いてその日を待ち続けるのもよいが仮に誰かが手を差し伸べてくれたとしても自分を変えるのは自分である。


少しきついことを言ったが自分を縛っているのは他ならぬ自分自身である。だがこのことは視点を変えれば自分の可能性が無限大であることを示している。そしてそれは自分のマインドで決まる。こうしたことは誰も教えない。当然だ。これは支配する者たちにとって絶対知られたくないことだ。「自分は無力で弱い存在」いつまでもこの状態を保ちたい。

 


「自分が変わらなければ何も変わらない。」これが波動の世界である。
波動の世界は「同調」である。同調によって新たな自分、新たな世界を創造、体験する。
もし今の自分がネガティブな波動と同調しているのなら、今の自分の波動を変えない限り永遠にネガティブな波動の中に留まることになる。ネガティブな波動から抜け出すには自分の波動を変えるしかない。それができるのは自分だけだ。
だからHSPもカルマもすべて自分が解決しなければならない。自分で蒔いた種は自分で刈り取るのだ。

 


退職後の私は日々、刈り取り作業の連続であった。

HSPの私は永年に亘って負の種を蒔き続けてきた。退職するまでは種を蒔いてはそれを刈り取るという日々を送っていた。だが退職後は刈り取ることをだけを目指してきた。もう種は創らない。


刈り取り作業は苦痛であった。だが幸いなことに私はそれを認識していた。刈り取るという行為が感情の開放であることを知っていた。
感情が解放される時、私はその感情を再び体験することになる。確かにそれは苦痛であったが開放であると知っていたから私は逃げなかった。ただそれらを無視した。反応すれば再びネガティブな感情の種を植えることになる。


過去の感情の開放であることを認識していたことは私にとって大きな助けになった。それに開放であることを知っていたから表出した感情に執着することはなかった。だからすぐに忘れ去った。忘れてしまえばもうこっちのものだ。それらは二度と私のもとにやってこない。


今は光が強くなっているので多くの人が感情体の奥底に残った古い感情が現れてきているのを体験しているかもしれない。それは感情の開放である。それらを意識してはいけない。無視して消えてなくなるのをただ観察していればよい。

(補足)
残念ながら恐怖症やトラウマは一筋縄ではいかない。私はこれを身をもって経験した。私は同じ夢を延々と見続けた。このことはこれらが単なる感情の記憶ではないことを示していた。おそらく強い感情的衝撃が感情パターンを形成しており、これが何らかの出来事がきっかけで条件反射のように表出してくる。だから私はその元を取り除かない限り開放されない。そのためには直接、感情体にアクセスしてその障害を取り除く必要がある。それについては以前、「夢と体外離脱の融合体験とトラウマの解消」で述べたのでここでは簡単に触れるに留める。これらは外的要因によるところが大きいと思うがそれでも解決するのは自分である。

 

既に1年以上前になる。当時、私は永年、同じ夢を見続けていた。その夢は二つあった。一つは断崖絶壁やビルの屋上といった高所にいて恐怖で一歩も動けないというもの。もう一つはかつて通っていた小学校での霊的恐怖体験である(高所の夢は2024年11月に「幻想の崩壊」という手記の中で詳しく記している)。
私は何年にも亘ってこれらの夢を見続けた。つまり、それらは夢では解放されないものである。
 

それは偶然の出来事だった。もしくは最初から仕組まれていたのかもしれない。私は肉体から離脱した状態でそれらと対峙する機会を得た。肉体を持たない私に恐怖は存在しない。私を傷つけることができるものは何一つ存在しない。後は私が離脱状態にあることを100%確信できるかどうかである。そして私は100%の確信の元、障害と対峙した。そして私は障害を克服した。その時、私は本当に克服できたのか断定できなかった。だがその日から既に一年以上経過したがそれらに関連した夢は一度も見ていない。あれほど見続けていた夢がついに私から消え去ったのである。

ここ何回か、「意識」について触れているが実は私自身、「意識」に関して二十数年間未解決の問題を抱えている。

今日はこれについてお話ししてみたい。
 

 

二十五年前になるが私はクンダリニーが覚醒するといつも異次元世界へ旅立った。スシュムナーを駆け上がってきたクンダリニーエネルギーが松果体に居る私(意識)を引き連れて頭頂から勢いよく抜け出るのであった。

 

頭頂から離脱した私は様々な世界へ行くのであるが面白いのは連続して(いろいろな世界を経由して)幾つもの世界を訪れることだった。ある世界へ出るとそこからまた別の世界へ行く。例えば家の壁を抜けると別の世界へ出るというものだ。これが2,3回継続する。これは次元移動であるがおそらく低い次元から高い次元へ向かっている。途中に訪れる世界は通り過ぎるだけである。私も移動しかしていない。そして私は最後の世界に到着する。


また頭頂から離脱せず、肉体に留まった状態の時もあった。この時、私の周囲に大きな空間が形成された。

例えば大自然の中に私一人が居る感じだ。空間の大きさは感覚で少なくとも半径数百メートル以上あった。私はこの空間のすべてが手に取るようにわかった。私の意識が拡大したのである。

 


こうした興味深い体験を繰り返していると私は離脱時にいろいろな実験をしてみたいと思うようになった。

例えば“その時、私の身体はどのような状態で存在していて、その身体で何ができるのだろうか”とか。

こうしたことを普段考えているのであるがいざ覚醒して肉体から離脱すると瞬時にそうした考えがどこかに消えてしまった。これは何回やっても同じだった。折角テーマを持って覚醒し離脱しても離脱後の私にテーマはもうどこにも存在していないのであった。こうして私の体外離脱に関する検証は一向に進まなかった。


肉体に帰還して体験を思い返した時、わかったことと言えば私は人間的感情が全く消えていたということだった。そこには二元性も存在していなかった。離脱した私は訪れた世界においてその世界に初めて生れ落ちた赤子のように純粋無垢の一つの意識として存在しているのであった。その世界で私を動かしている原動力は好奇心だけであった。私は“今、ここ”に存在していた。


「私は“今、ここ”に存在し、好奇心が私を動かす。」
 

実はこのことが未解決の大きな問題なのである。
こうした離脱体験の回数は三桁に及ぶが離脱中に私が普段抱いているどんな思考や記憶も頭をよぎったこと(意識として現れたこと)は一度もなかった。私の愛する家族でさえ誰一人、私の意識に現れたことはなかった。私の意識は今、目の前にある光景に集中し、それに対して私が感じることだけだった。
五次元世界も一元性の世界であり、“今、ここ”しか存在しない。五次元での家族関係はどうなってしまうのだろうか。五次元では家族という関係は存在しないのだろうか。

私はこの場でいろいろ好き勝手なことを言っている。

すべてとは言わないが大切なことも多いので今はピンと来なくても心の片隅にでも置いてもらえればありがたい。何かの機会に“そういえばこんなことを言っていた奴がいたな。”と思い出してくれればそれで充分である。

 


一番大切なことは余計な思考をしないこと。思考を完全になくすのは無理だから必要最低限なものに留めたい。そんな中、私の話で思考させてしまうのは本意ではない。本末転倒である。

文字を読むことで思考が生まれる。だから文章はなるべく短い方がよい。だが短すぎると行間を読むことになってしまい思考を働かせてしまう。この辺が難しい。それに文章の長短も内容によって異なる。

 


「思考しないこと。すべてを自然の流れに委ねること。」これがあるべき姿だ。
 

「思考しない」 でもこれを意識してしまうと思考を生んでしまう。だが逆に意識することを止めると自ずとその状態になる。不思議だがこれは私が以前に述べた願望実現の方法(*1)と同じである。


実は最近、気づいたのである。

先日、気づくと私から思考が消えていた。あれほど思考ばかりしていたのにそれが嘘のように消えていた。私の全く気付かないうちに私は“今、ここ”に生きていた。結果、私から一切の不安が消えていた。


自分が思考していないことに気づくと私は思い出したように思考した。これがこれまでの習慣だったからだ。思考は私を過去や未来に運んだ。すると私の心に悲しみや不安が生まれた。


「思考しない」ということも実現(具現化)できるのであった。これは私にとって発見だった。考えてみれば願望の実現は自己の波動を変えることである。波動の観点で言えば私の意識レベルを変えるのも同じことだった。


すべてが波動だからすべてが実現可能なのである。私は勝手に自分自身に枠を設けていたのであった。


(*1)願望実現は、まず“こうありたい”という思いを心に植え付けたらそれを忘れる。後は一切関知しない。その思いが意識から完全に消え去ると、早晩、結果が現れる(具現化する)。結果が現れることによって“そういえばこういう願望を持っていたなあ”と思い出す。

先日、五次元意識について触れたが、そもそも「意識」とは何なのか。

これは非常に難しい問題である。私自身も正直なところまだわかっていない。

 

今、私が「意識」について言えるのは「認識する者(存在)」であるとまでしか言えない。
そこで今日は私が今、思っている「意識」についてお話してみたい。

 


「意識」の特徴を挙げるとすれば同調と分離・分化であろう。だがこれが「意識」に対する概念をより複雑にしている。
あらゆるものには意識がある。物理次元は意識が物質に転化したものだ。そして意識は物質を生命へと導く。すると生命(意識)は自らを進化させていくようになる。人類はこの進化した姿である。進化した意識は自らを分化していく。

 

この物質界に生きていると自分という存在は唯一無二であると信じて疑わない。自分の中には自身のアイデンティティが確立されている。だが実際は違う。それは“自分”という世界の一つを見ているに過ぎない。


スピリット(*1)から分化した魂が二元性の物理次元にある地球という惑星にやってきた。純粋な魂を動かしているのは好奇心だ。好奇心は魂の持つ根源的で純粋な探求心である(*2)。

二元性から生まれる感情には麻薬性があり、この毒素によって魂は輪廻を繰り返すことになる。そして輪廻を繰り返す度に人格が形成される。人格は四次元に留まり再び地上に生まれ落ち、また一つの人格を形成していく。輪廻はこうして人格形成した意識の集合体を形成していく。今世の“自分”もいずれこの集合体に加わる。この集合体はそれ自体が意識を持つ。これがオーバーソウルである。


これはあくまで私の感覚であるが分化した“意識(人格)”は複数(と言ってもかなり多い)あり、今の私はその一つの“意識”に焦点を合わせている状態にある。だがこの表現は理解しやすいように敢えて時空という概念に基づいて表現したもので実際は、意識は一つである。そして同時に複数でもある。冒頭で「意識」が分離・分化すると言ったがこれも同じで分離も分化もない(以下に述べるものも理解しやすいように時空の概念に基づいている)。

 


意識は振動しており、他のものと同調してその意識を表現する。意識は同調によって次から次へと自らを変えていく(焦点を変えていく)。従って意識として何か特定のものが存在するわけではない。意識は文字通り波のように振る舞う。


この物質界で“自分”と思っているものは自分であるが本当の自分(元々の自分)ではない。自分が送り出したプレーヤーである。プレーヤーが自分の分身を地球という惑星に送り込んでそこを舞台にロールプレイングゲームをやっている。

 

魂は一応やりたいことを決めて物理次元(地上)に降りてくるが、いざ生まれ落ちるとそうした記憶は一切消えている。まさに何色にも染まっていない純粋無垢な状態になる。これによってゲームは自分の役柄を決めることから始まる。そして決めた役柄を一から思いのままに育てていく。

 

このロールプレイングゲームは好きなように“自分”を育てて好きなことがやれるのである。こうして出来上がったのが今の自分だ。演者である自分が有する自我や思考は育てていく過程で演者が身につけたものである。それらは物質界で創造されたものであり物質界のみで利用できる(通用する)ものである。それはロールプレイングゲームを楽しむためのスキルであり物質界探索のための便利アイテムだ。


 

こうした事を踏まえて私は自身の自我を客観的に捉えている。まさに私はロールプレイングゲームをしている。私がこのように言えるのは「意識」が固定のものではないことを確信させる体験を何度もしてきたからである。


例えばパラレルワールドを訪れる。パラレルワールドの世界はトンネルを抜けていくことが多い。トンネルの出口から足を踏み出した途端、私の人格が入れ替わる。それまでの私は消滅し、私は新たな私になる。そこに存在する私はパラレルワールドの世界に生まれ育ち、パラレルワールドにおける人生の記憶を持ち、そこで築いた信念で思考する。だとしてもそこに存在しているのは紛れもなく“私”である。そこに存在する私が私にとって唯一の私である。これまでの“私”は消滅した。今度は新たな“私”が私なのである(*3)。

 

意識は次から次へと同調し波動(振動数)を上げていく。そして最終的には根源(創造主、神)と同調し一体化する。意識は肉体を離れると過去に存在していた時の最も高い波動レベルへ行く(これは波動が高いほど心地よいからである)。こうして少しずつ根源へ近づいていく。


(*1) スピリットは根源と一体をなしている。究極的な“自分”といってもよい。
(*2) 意識を物質に転化し、生命に高めた意識も意識の持つ好奇心によるものであろう。

(*3)こうした事は私が再び元の私に帰還しなかったら決して知ることはなかった。私の経験では私が意識を分離させる時その意識には紐がついており私と繋がっている。これによって私は分離させた意識を帰還させることができると思っている。分離させた意識ではなく私の意識本体の同調では上記と全く同じことが起こる。こうした体験は無数に存在するかもしれない。