"Don't think. Feel!"

ブルース・リーが主演映画「燃えよドラゴン」の中で言ったとされる有名な言葉である。

 

この言葉は何度も聞いていたが私は映画を観たことがなかったので機会があれば実際に聞いてみたいと思った。

最近は全く映画を観ないが今朝たまたま契約しているCATVでやっていたので観てみた。そのシーンはすぐにやってきた。
ブルース・リーが弟子の蹴りを受けていたがようやく弟子に会心の蹴りが出た。その時、ブルース・リーが弟子に何を感じたか聞いた。弟子が考え込むとすぐさま弟子に向かって

"Don't think. Feel!"
本当に言っていた。
 

その意味するところであるがその場面だけではよくわからない。

実はブルース・リーが弟子の相手をする前に師との会話の中で言っていたことがある。簡単に要約すると次のようなことを言っていた。
「優れた武道家というのはすべてに備えるものである。そのためには緊張があってはならない。全身から力を抜き無我の境地になること。無心の時にこそ集中力は高まり相手の動きを読むことができる。」


この言葉から推察すると弟子が会心の蹴りをした時、弟子の意識は目の前の相手(ブルース・リー)に集中しており、余計な思考が一切存在していなかったはずでその時の感覚を忘れるなということだろう。


このことはまさに意識のフォーカスであり、一つのことに没頭することであり、意識の「今、ここ」である。エネルギーである意識はその時に持てるポテンシャルを存分に発揮するのである。


さて、思考についてはこれまで何度も触れてきたところである。
私にとって思考は障壁であった。次元の壁を抜けて五次元世界を訪れる時、いつも思考が私の前に“壁”として立ち塞がった。

初めの何回かは全く問題なかった。だが回数を重ねるうちに「今日はどんな世界に出るのだろう。」等といった思考が現れるようになった。

私が五次元世界を訪れる時、経験が足かせとなった。この物質界では経験はよいこととされるがこの世界を離れれば経験は障害であった。高次の世界では三次元世界の常識が全く通用しないのである。


次元の壁を抜け五次元世界を訪れる時、最初、私の意識にあったのは好奇心だけだった。目の前に現れるもの、すべてが新鮮だった。私の好奇心は途切れなかった。この時、私はまさに「今、ここ」に存在していた。この状態こそが五次元以上の世界における意識であり、これが意識本来の姿であり状態であった。


私は経験を積むことによって目の前に見慣れた風景を見ることになった。そこにはもはや私の好奇心を刺激するものは何もなかった。

私の意識はフォーカスを失った。するとその途端、私の中に思考が芽生えた。思考はどんどん大きくなり意識を覆った。もう意識は思考を通さないと何も表現できなくなった。思考というフィルターが私の波動上昇を妨げ、私を三次元に留めさせた。


 

三次元世界において経験は類似した状況に遭遇した時に何をすべきかを教えてくれる重要な情報である。しかしながら過去も未来も存在しない五次元以上の世界では、思考は意識にとってノイズでしかない。思考は物質的な創造物なのである。

三次元物質界に生きている間は、思考は必要不可欠なものである。決して悪ではないが自発的に高次の世界を探索しようとしていた私にとっては大きな障害になった。


精神体は肉体の安全を確保することが仕事である。精神体は意識に「未知のものは怖い」と教える。経験によって肉体にとって最も安全と認められた方式を維持させようとする。それは信念となり、意識の表現に対する強力なフィルターとなった。
精神体は変化を嫌う。変化は肉体にとってリスク要因でしかないのだ。

 


意識はそれ自体では潜在的なエネルギーである。このエネルギーを機能させるのが好奇心である。好奇心は未知のものに対して働く。そして意識が動く。これによって創造が起こる。コミュニケーションも意識の動きである。


この物質界で人間は肉体を持っている。これによって人は未知のものには恐怖を抱き、馴染みのあるものには安心感を得る。好奇心の対極にある行為が推奨される。

前回、体験して“感じる”ことが高次の世界におけるコミュニケーションであり、これによって物事の本質を知ることができると申し上げたが、これは物理次元においても何ら変わるものではない。躊躇せず行動することだ。自らの情熱に従って行動する。これが三次元物質界におけるコミュニケーションの在り方である。言葉で人は動かない。情熱が人を動かすのである。

私の人生は思考の人生であった。日々、思考の連続であった。朝起きてから会社へ行き、仕事を終えて帰宅する。毎日がルーティン化され目にするものも同じ。好奇心を刺激するものは何もない。だから私は思考した(*1)。歯を磨きながら思考し、駅に向かいながら思考し、電車に乗って思考し、仕事でも思考した。


そして今、私はその思考を排除しようとしている。
現在の私である。それでも思考は存在する。この世界に生きている限り仕方ない。今、私は文章を書いているがそこにも思考が働いている。このように言うと私が思考を悪として見ているように聞こえるかもしれないがそうではない。思考は必要だ。それに思考は条件が整えば簡単に消える。その条件をつくればよいだけのことだ。その条件は時が来れば自ずとやってくる。


そこで今日は思考とか知識について私の思っていることを話してみたい。

 


「あらゆるものはシンプルである。」

これは私が様々な次元世界を訪れて感じたことである。

 

“本質”はあらゆるものにおいてシンプルである。

そして“本質”は体験によって得られる。

体験によって“感じる”のである。今、私は“感じる”と表現したが、実はこれこそが高次の世界におけるコミュニケーション方法である。物理次元の例えで言えば莫大な知識が瞬時に脳内にダウンロードされるのだ。さらに無限のデータベースへのアクセスも可能である。

 

これが本質を体験した時に起こる現象である。

本質はシンプルである。だが本質を知ればそれに付随する無限ともいえる知識が得られる。

そう。この感覚である。一つであるが同時に無限であり、無限であるが同時に一つであるという感覚。意識である。この相矛盾するような感覚こそが意識の姿である。体験も同じなのだ。意識、体験、本質、みんな同じだ。つまりシンプルなのである。


世の中を観察して気づくのは、人は物事を難しく捉えるのが好きだということだ。世の中も難しくすればするほど評価する風潮がある。それは知識の豊富さを意味し、知識量こそが真実であり正義である。
だが私に言わせればこうした複雑化させる行為は自分の無知を誤魔化しているだけだ。そして誤魔化そうとしている相手は他ならぬ自分自身である。こうして人は自己満足という世界に浸かる。

とは言っても仕方ない部分もある。この世界(物理次元)では知識を蓄えることに価値を見出し、そして知識の蓄積こそが「相手」を“知る”ことだと教える。そして誰もがそれを信じて疑わない。


幻想の世界で幻想を抱いたまま人生を終える、つまり欲望だけの人生を送るのであればそれでも良い。だが欲には際限がない。いずれその虚しさに気づく。
人それぞれであるから私は欲望の人生を否定しない。人は自分の信じる道を歩めばよい。欲望は欠乏感から来る。欠乏感は恐怖から生まれる。一生、恐怖に怯えながら生きるのも人生である。

しかし、恐怖は幻想である。形あるものすべて幻想である。いずれ消えてなくなる。いつか自分が人生の遠回りをしていたことに気づくだろう。だがその時、後悔してはいけない。すべてはその時の自分にとってそれがベストの選択であったのだ。だから自分の行ったすべての選択に対して結果が何であれ自分を赦す。これが自分を愛すること。これができれば遠回りは帳消しだ(実際は遠回りなど存在しない。これも予定通りなのだ。だが、そんなことは知らないので自分を赦すことは難しいのである)。

 


多くの人は知識に対して幻想を抱いている。疑問はすべて知識が解決してくれると思っている。こうして人は知識に傾倒し、知識に溺れていく。言っておくが知識と言っても人類の歴史などほんのわずかなものだ。しかもその知識は物理次元に限定されている。次元はいくつもある。そしてそれぞれの次元はお互いに影響を及ぼし合っている。物理次元の現象は物理次元だけを見ていてはだめなのである。最もわかりやすい例を挙げれば人体であろう。西洋医学の限界は誰もが知るところであろう。夜空に広がる宇宙もそうだ。


こうした限定された知識の中でさらに限定されているのが個人の知識である。この知識を基に思考が為される。この思考によって自分の歩む人生を決める。私に言わせれば恐怖でしかない。それは幼稚園児に車を運転させるようなものだ。
感じること。つまり体験である。体験こそが真実だ。そしてそれは無限の知識だ。


私は常々、体験が重要だと言ってきた。“知る”ことは体験によってのみ齎させる。いくら知識を蓄えても“知る”ことはできない。百聞は一見に如かずである。ましてや知識で物事の本質を理解することはできない。永遠に不可能だ。本質は体験によってのみ知ることができる。


体験とは同調である。同調によって相手そのものになる。だから相手(対象)のすべてを知ることができる。
言葉や文字による“理解”はどこまで行っても“信じる”の域を出ない。しかしながら、「自分はこれだけ勉強したのだから“知っている”(はずだ)。」と思い込む。これは知識を持つことが相手を“知る”ことであると誤解していることから生まれる。結果、知識を追い求める。こうして自分を誤魔化し欲に溺れていく。
似たような事例はいっぱいある。
近くの公園へ行くといつも野鳥の撮影をする大勢の写真愛好家がいる。彼らを見ていると写真を撮ることが目的になっているように見える。美しい野鳥を愛でるのではなく写真に収めることが目的になっている。かく言う私自身も数年前まで貝のコレクションをしていた。最初は自然の生み出す美しい造形美に魅了され、貝類を集め出した。ところが徐々にいろいろな種類を集めることが目的になっていった。最初の目的はどこへやら。これが欲の怖いところである。欲は意識を本質から外していくのである。

本質は常にシンプルである。本質を知っていれば答えは単純明快だ。
誰もが経験があるはずだ。何か疑問があってその答えを探していたところ、そのことに詳しいという人からいろいろと説明を受けたがどこかしっくりこない。ところがある日、全く関係ない人が放った一言にハッとする。それこそ自分が求めていた答えであったと。このような経験が一度はあるのではないか。
その一言こそ、“本質”である。本質を知ったのである。だから心に響いたのだ。本質はいつもシンプルだ。いくら知識を増やしても本質に辿り着くことはない。
何でも構わない。自分が本質を知っているかどうかを試すなら、そのものを一言で表現できるかやってみるとよいだろう。その時に万人に向けて宣言すると想定してみる。すると一言で表現するのがとても難しいとわかる。聞き手のレベルもいろいろだし欲しているものも違う。それに対して一言で表現するのは恐怖である。様々な質問が飛んでくる。求められる答えが違う中で本質という一本の筋を通すのだ。

例えば「愛とは何か?」 スピリチュアルに興味のある人とない人とでは答えが違ってくる。大人と子供でも違う。相手によって解答が異なるのだ。だが愛は愛である。そこに一切の矛盾は存在しない。

 

(*1)好奇心によって意識が対象にフォーカスしている状態では思考は生まれない。意識がフォーカスを止めた途端に思考が生まれる。

前回、この話をした後、面白いことに気づいた。


まず前回のポイントを簡単にまとめるとプラーナ管を流れてきたプラーナは目の前の空間に出るとタンポポのような形に変化する。その根元に何枚もの葉を広げ、複数の長い花茎を上に伸ばす。
一方でプラーナの流れが集合した場所では蕾を持たないヒマワリのような形を取る。


私はガーデニングが好きでほぼ毎日、植物と触れ合っている。既に10年以上、植物を育てている。

春の芽吹きからの成長、初夏の開花、秋の紅葉、そして枯れていく姿まで一年のサイクルを何度も見てきた。

その中で感じることは、植物は動物と全く同じであるということだ。

 

何年か前にイギリスのBBCが制作したLife of Plantsというドキュメント番組を観たが植物と動物は同じであることを実感したものだ。特に食虫植物は動物そのものである。中でもウツボカズラの捕虫袋が成長していく様子を早送りで見るとそれは蛇の動きと瓜二つであった。

植物の成長の動きは遅いので毎日観察していないと変化を感じ取れないがおそらく時間を早回しすれば動物のような姿を見せるであろう。


しかしながら植物は動物のように動き回ることができないので芽吹いた環境で一生を過ごすことになる。だからその生き残りをかけた戦略には目を見張るものがある。


植物において最大の死活問題となるのが日光であろう。植物は日光を独占しようと相手より早く成長しようとする。私はこれを利用して植物を大きく育てている。
植物間の間隔を狭くして植えると植物同士の競争で成長が早くなり、背も高くなる。だが植物の間隔が狭すぎると葉が十分に広げられず、ひょろひょろした植物になってしまう。競争を維持した状態で十分に葉を茂らすことのできる環境を与えてやると植物は大きく立派に育つ。


これは木本植物でも同じである。競争相手がいると日光を求め、我先に上へ上へと成長する。だが競争相手がいないと横へ大きく成長する。上へ成長すると水を吸い上げるのも一苦労である。それに風で倒れやすくなる。横へ広がるように成長すればより多くの葉を茂らせて効率的に日光を吸収できる。水を吸い上げるのも楽だし風にも強い。


近くの公園にはメタセコイアの森があるが、ほとんどの木は、背は高いがひょろひょろで台風の後は何本か折れているのを見る。その公園には一本だけで独立して立っているメタセコイアもあるがそれらは太い幹を持っているが樹高は低く、枝は横に大きく張り出している。

タンポポを観察すると根元から葉を何枚も広げている。これは植物として最もストレスのない形状である。花茎は長く伸びるがこれは風で種子をより遠くへ飛ばすためである。

他の植物との競争があるとヒマワリのように直立して上を目指す。条件が良ければ太く立派な幹となり大きな花を咲かせるが好き好んで背を高くしているかはわからない。

地球という環境で最もストレスフリーな形態がタンポポの形だろう。当然にこの形態を持つ植物の生命エネルギーは高い。健康にもよいだろう。

プラーナはなぜ植物の形態を取るのか?
これは私が永年疑問に思っていることである。とは言っても答えを追究したいと思っているわけではない。不思議に思いながらも、まあそういうものかといった程度に捉えている。だが何度も経験していると自ずと見えてくるものがある。
 

 

目を閉じると目の前にはホログラムを映し出すドーム状の空間がある。ドームの頂点にはクラウンチャクラの丸い孔があって、そこをプラーナ管が走っている。尚、この位置関係は私がそのように(便宜的に?)認識しているというだけである。時空の存在しない世界なのでこうした思考は本来無意味であるが理解する上で助けになる。

それとプラーナ管であるが、実際に管があるわけではない。プラーナの通り道として筒状の空間(のように見えるもの)があるだけだ。


さて、このプラーナ管は各チャクラから取り込んだそれぞれの波長を持つプラーナが紐の形態を取って流れている。

頭上には7つの体外チャクラがあるのでクラウンチャクラを通過する時にはプラーナ管には7本の紐が存在している。

 

7本の紐はお互いが螺旋を巻いて1本の太いロープを形成している。この集合したプラーナ紐は高速で回転しながら時計回り、半時計回りを繰り返している。この螺旋を巻いたプラーナ紐がドーム状の空間に入ると紐は解けて広がり、それぞれが草本植物の花茎に変化する。

 

加えてクラウンチャクラの孔の内部は溶岩洞窟のようになっており、内壁には鋭利な鱗片状のものが幾つも張り出している。螺旋状に流れるプラーナ紐がドリルのように壁からこの鱗片をそぎ取り、これが材料となって植物の根元に大きな葉を形作る。こうして形成された姿はまさに株立ちの植物である。例としてはタンポポを思い描いていただければよい。尚、プラーナ紐は花茎に変化しても依然、高速で回転している。


私はプラーナの流れがこのように株立植物を形成するのを何年も前から見ているが、条件が良ければそれは完璧な植物形態を取る。


次はチャクラのスクリーン映像に見る植物である。チャクラにはいろいろな映像が現れるが特に明け方に集中して現れる映像がある。それが草本植物である。背の高い草本植物が何十本と映し出されている。わかりやすい例を挙げればまだ蕾を持たないヒマワリである。成長途中のヒマワリが何本も立っており、それぞれが素早く回転している。回転は時計回り、半時計回りを繰り返している。回転方向を一定間隔で変化させるのはヒマワリがプラーナの流れであることを示している。


そしてもう一つ。これは昔からよく言われていることであるがチャクラは花の形態を取る。見たことのない人は単に“花のように見える”だけだろうと思うかもしれないが、それは“花そのもの”である。完全な“花”である。例えばクラウンチャクラはチューリップである(とは言ってもそれはクリスタルでできている)。
私はすべてのチャクラを見たわけではない。それにどの花がどのチャクラなのかもわからない。唯一特定できたのがクラウンチャクラである。だがいずれも完璧な花である。

 

補足するがチャクラは渦を巻いているように見えるが渦巻はチャクラそのものではない。チャクラに取り込まれるプラーナが渦を形成しているだけだ。渦巻は一定間隔で回転方向を変えプラーナの循環を行っている。

 

 

このようにプラーナは植物の形態を取る。

なぜプラーナが植物の形態を取るのか? それはおそらくプラーナが活性化し生命力にまで高められた時、このプラーナが最も安定する形が植物の形態なのだろう。実際、草本植物は成長が極めて早い。生命力にあふれている。

木本植物も春に伸びる新梢は草本植物と同じ形である。

植物はプラーナによってプラーナの赴くまま成長する。草本植物の形態はその結果が現れただけだ。草本植物の形こそ活力あるプラーナの姿に違いない。


人間が植物に惹かれるのも、野菜が健康に良いのもプラーナが関係している。プラーナが木本植物でなく草本植物の形態を取るのも草本植物の方が生命力が高いからであろう。

前回、夢がおかしいと申し上げたがその意味が少し分かってきた。


まず基本的に人間は多次元的存在である。三次元物質界に限定されるものではない。物質界に居ながら同時に四次元アストラル界の体験もできるし、五次元の体験もできる。すべてが繋がっており、共存しながら同時並行で進んでいく。もちろんパラレルワールドも同じである。
先日、「意識の使い方」の中で述べたが四次元アストラル界で私が椅子をつかんでいるのを三次元物質界で認知しているのもその例である。


今回の夢の例で言えば夢でアストラル界にいても意識は肉体と繋がっている。

夢は前回お話しした理由でリアル感がない(*1)。夢は映像体験であり映像を通して過去の自分を“体験させられている”。そこに好奇心はない。すぐに忘れてしまう。


こうした夢の状態から意識的に足を一歩踏み出す。するとそこには別世界が広がっている。例えば昨日はこんな感じだった。
「私は夢の中に居る。明らかに夢である。状況は一応途切れることなく進んでいるが中身は支離滅裂である。風景もモノクロだ。典型的な夢の様相を呈している。

そんな中、私は何らかの建物の中に居た。私はドアを開けて外に出た。

するとそこには別世界が広がっていた。フルカラーである。私は崖の上に立っている。前方には湖が広がっている。それは険しい山の中にあるダム湖のように山の一部が湖にせり出し、とても美しい景観をつくっていた。

 

私は一抹の不安が頭をよぎったが崖から足を踏み出した。

「問題ない。」 そのまま私は空中を歩き進めた。

湖の中ほど近くに来たところで湖面を歩いてみようと思った。私がそう意識すると身体はゆっくりと湖面に向かって降りて行った。

 

私は湖面に着水した。私は一歩踏み出した。「問題なく歩ける。」 その時、水の中に入ってみようと思った。

そこで私は湖面に自分の身体が丁度入るくらいの直径50センチほどの筒状の穴を開けた。私はその中をゆっくり下降した。

時折、顔に水が触れた。感触はひんやりしており水温はかなり低そうであった(*2)。

私は湖底に着いた。水深は大体10メートルと言ったところか。

水はほんの少し緑がかっているが透明度は高い。周囲を見渡すと直径30センチほどの岩がたくさんあった。私は湖底を歩いて行こうと思った。だが歩き出すと私を取り巻いている筒状の水の表面が揺れ動いて前方がよく見えない。私はあきらめて湖面に戻った。私は再び水の上を歩いた。」


この他にも私は幾つかの世界を訪れた。いずれも最初、私は夢の中におり、そこから私は自発的に行動を開始した。そして美しい世界へ出た。私は自身がその世界にいる間、感覚は肉体と繋がっていた。いずれの世界においても私はその世界を肉体の五感で感じていた。それと一つ不思議なことがあった。その世界で私は動きづらかった。身体の周りに見えないバリアを纏っているような感じであったのだ。

 

(*1)「夢がおかしい」参照

(*2)水を冷たく感じるこの感覚は肉体の感覚そのものである。完全に離脱した状態では冷たさは感じない。感じるのは心地よさだけである。