吉備の中ツ国(備中)の川嶋河の分岐点の淵にミツチが住み着き、毒を吐いて人を害したり殺したりしていた。
そこへ、笠臣の祖の県守(あがたもり)という者が淵に来て、瓠(ひさご)を三つ浮かべ、ミツチに対し、その瓠を沈めるよう命じ、それが出来れば撤退するが、出来なければ斬り殺すと言った。
すると、ミツチは鹿に化けて瓠を沈めようとしたのだが、出来なかったので県守はこれを斬り捨てた…との話が伝わります。

備中(岡山)の笠氏の祖というところが、今回の話に絡んで意味ありげです。
笠氏は若狭彦神社の社家であり、吉備真備の下道氏と同じ稚武彦命の末裔です。
その笠氏の祖の県守がミツチを退治したとは、洪水や氾濫を起こす荒ぶる水のエネルギーを治水したという意味でしょうが、そこに水の精霊である蛇(蛟)を見ているわけです。



すべては、つながっている。

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769年(神護景雲3年)、称徳天皇と道鏡にまつわる、皇室の歴史を揺るがす大事件「宇佐八幡宮神託事件」(うさはちまんぐうしんたくじけん)が勃発します。

道鏡の弟である弓削浄人(ゆげのきよひと)と大宰府の主神(かんづかさ)の中臣習宜阿曽麻呂(なかとみのすげのあそまろ)が「道鏡を皇位に就かせれば天下太平になる」という宇佐八幡宮の神託があったと称徳天皇に奏上したのです。実は、中臣習宜阿曽麻呂も道鏡の息がかかった者でした。

称徳天皇は喜び、神託の真偽を確かめるために和気清麻呂(わけのきよまろ)を宇佐八幡宮に派遣しました。ところが和気清麻呂が受けた神託は「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。無道の人は宜しく早く掃い除くべし」。皇位は皇族が継ぐもので、無道の人である道鏡は早く追い払いなさいというものでした。

この神託により、道鏡は天皇になることができなくなってしまったのです。怒った称徳天皇は和気清麻呂に別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)という屈辱的な名前を与えて流罪にしました。

道鏡も和気清麻呂を暗殺しようと試みますが、急に雷雨が巻き起こり実行は阻止されたと言います。

この事件により、道鏡は女帝をたぶらかして皇位を狙った不届き者として、平将門足利尊氏とならぶ「日本三悪人」に数えられるようになりました。



宇佐八幡宮神託事件は面白おかしく語り継がれ、道鏡は天皇と姦通していたとする説や、巨根説などのスキャンダラスな噂が生まれました。江戸時代には「道鏡は座ると膝が三つでき」といった破廉恥な川柳もささやかれていたとか。

もっとも、道鏡が皇位に就くことは称徳天皇の希望だったという説や、称徳天皇と道鏡が姦通することは不可能だという説、道鏡を皇位に就かせれば天下太平になるという神託は、称徳天皇を喜ばせるために中臣習宜阿曽麻呂がねつ造したものだという説など、道鏡の無実を主張する説も多々あります。

真相は分かりませんが、もしも道鏡が天皇に即位していたとしたら、神武天皇から今上天皇まで126代続く天皇家の歴史、ひいては日本の歴史はまったく違ったものになっていたに違いありません。

ちなみに一時は天皇の椅子も視野にあった道鏡ですが、事件の翌年の770年(神護景雲4年)に称徳天皇が病気で崩御すると失脚し、道鏡の権力は一気に低下します。軍事指揮権は太政官である藤原永手(ふじわらのながて)や吉備真備(きびのまきび)に奪われました。

道鏡は長年の功労により、処刑まではされませんでしたが、弟の弓削浄人ら親族4名は土佐に流されました。道鏡は下野国(しもつけのくに)の下野薬師寺別当(しもつけやくしじべっとう)に左遷され、そこで没します。

道鏡は死後、一庶民として寂しく葬られたと言います。



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