『出芽の国』


わたしたち 一人ひとりの


🌾大和魂の芽🌾


どのように育んで、

まいりたいですか💗*.(๓´͈ ˘ `͈๓).*💗






スサノオは稲田姫稲と田?)を水害ヤマタノオロチ・蛇神?)から守る事により英雄神となりますが、水害から身や作物を守り、蛇神信仰を克服しそれ以前のアニミズムから1歩前へ進んだ事を表しているように思います。

そしてそれは、スサノオという英雄以外には出来なかったことなのかもしれません。

天孫族の登場を待つまでは・・・・・・・。

オオナモチスクナヒコも稲作の伝播に関わっていたように思いますが、それは天孫族が繰り広げた平地の水田開発ではなく、盆地や山地の稲作に適した自然条件の地を見つけそこを出雲族の地として支配を広げていったのではないかと妄想しています。

そして彼らの稲作は平地の水田耕作以上に太陽の恵みというか照射角度により大きな影響を受けたのではないかと思います。だからこそ太陽の運行を計測する必要があり、それが続くことにより、ひとつの祭祀の形となった。それが出雲の太陽祭祀の源であり、他の祭祀よりも太陽祭祀が出雲で優先された理由の一つだと思います。

弥生期に、太陽の運行を計り、また交易や外交を通じて大陸文化から「聖=暦」=太陰暦を受け入れていたとすれば、卑弥呼の時代の王権は「皆既日食」などを理由に「王」を殺すなどという原始的政権ではなかったといえるのではないでしょうか?



「岐」の神

より











サイノカミとクナトの大神

サイノカミの夫婦神像があり向家では、それを先祖神として拝んでいた。
サイノカミの主神・クナト大神は、出雲族の指導者だったと伝えられる。
かれの妻、幸姫の命は、サイノカミの母神となっている。
サイノカミの特色は、子孫繁栄の神である。 つまり「縁結びと子宝の神」とも言われている。

 クナトノ大神と出雲国の発祥

クナトという人は古代インドのドラビダ族の王であったが大勢の部下を引き連れて日本へ民族移動を始めた。
ゴビ砂漠を北に進み、シベリアのアムール川を筏で下って、津軽半島に上陸したという。
その後彼らは南に移住して広がった。

クナト王の子孫はイズモに住み着いた。
インドの熱帯では常緑樹が濃緑色に茂っていた。 それに対して新しい土地では春に芽が出た森の色が目にしみるように美しく感じられた。
かれらは、その色をめでて自分達の地方「出芽の国イズメ)」と呼んだ。
その発音が変化して「出雲の国」になったと伝わる。

出雲地方ではサイノカミの祭りが盛んになった。
クナト王の直系の向家が出雲東部の神魂(かもす)神社[松江市大庭]の丘にあった。
その地の大庭の地名は神祭りの場だったことから来ているらしい。
そこから東方にサイノカミの主神・クナト大神のこもる大神山(大山:ダイセン)が良く見える。
人々は大庭に集まり、向家が司祭となって大神山を遥拝(ようはい)した。
出雲地方以外からも多くの人が祭に参加した。
その結果、向家が王家と仰がれた。 その氏子の広がりが出雲大国となった。
そしてサイノカミ信仰が出雲王国の国教なった。

一般的には、岐の神(くなどのかみ)別名は、久那土神、久那止神、久那戸神、久那斗神、車戸神、来名戸祖神、岐神、衝立船戸神、車戸大明神、久那度神、クナド大神、クナトの神、クナト大神、熊野大神、久刀  と多岐にわたる。
道祖神の原型であり、お地蔵さんも同じ意味だと思います。