つづき



鋤柄氏は絵描きであり、その立場から
顔の輪郭(りんかく)や目、鼻、口、顎など
各部分の長さと全体の顔との比率を
残された絵などから計測し、

ジンギスカンと源義経、
千利休と明智光秀の顔は

同一人物であったと言明し、
数値の表を残しています。




「千利休のごとき俳人は、
水呑み百姓までが、天下を奪わんと
猛り狂っている真只中に、

落葉の響き、声に耳を傾けて
四畳半裡(うち)に大宇宙をつつみ、
欠け茶碗に天地の幽寂を味わって、
英雄の心事を憫んでいた。

十里の長城、
いな土居をめぐらして帝都を復興し、
聚楽第を築いて、
花洛とともに花も月もおのれ一人の所有となし、

桃山城を建設して天下の美人を専し、
驕奢(きょうしゃ)と栄華に耽溺(たんでき)し
陶酔した豊臣氏に、

荒壁造りの茅舎(ぼうしゃ)を
見せびらかして飛びつかせ、

茶杓(ちゃしゃく)で丸木柱に
ふんじばってしまった利休は、
俳諧史上の逸品である。





明智光秀は一五二八年に出生し、
本能寺の変のあった一五八二年に死没、
千利休(宗易)は一五二二年出生、
一五九一年に死没とされており、
両者は同時代の人となります。

利休が著名となったのは、
本能寺の変の後の一五八五年の禁中茶会から。

千宗易は、歴史には表れないことながら、
まもなく病気になり
天正十一年三月までに死去しています。

本能寺の変があったのは、
天正十年(西暦一五八二年)六月二日ですから、
わずか九ヶ月以内のこととなります。

その証拠として、鋤柄氏は利休の妻宗恩が
天正十一年三月に聚光院(じゅこういん)に
米七石の永代供養料寄進を
したことを突き止めています。

千利休屋敷は、元々めぐりで参拝した
京都晴明(せいめい)神社の境内にあり、
晴明神社の目と鼻の先、
一条戻り橋は、豊臣秀吉が
千利休の生首を晒したことでも知られています。





新嘗祭の日に茶懐石をと


真っ新な自分と
生っていたにも関わらず


わたくしは、何故

彼と共に開こうと結心したのか。





未知を

本物の自身に
光還りいたしました時からずっと

歩み続けております、わたくしが


晴明神社を訪れました際に、こちらに

宣言していたから、でした。















心眼で観ているからこそ
千里眼の持ち主だと

人から認めていただいております、わたくし。





幾重にも重なっております
無限の宇宙の記憶を


今ここに在る肉体に宿し、

生き貫いております。












成吉思汗
吉野山で誓い・思いを成し遂げるかな 
汗は白拍子の服装

 静御前の
「しづやしづ しづのおだまきくりかえし 
昔を今になすよしもがな」
は義経への思慕を謡(うた)ったとみます。

成吉思汗の「汗」をかん・かなと読むと、
「なすよしもかな」と読めます。

成吉は「吉野山での義経と静御前の約束が成る」
と読み替えることもできます。

「汗・かん」を分解すると「水」「干」となり、
これは白拍子静御前の着る、
舞いの着物水(すいかん)を指します。









外面的には利休は、ついに豊公に殺されたが、
内部的精神的からみれば、
豊公は利休に殺されたのである。

時めく天下の関白が、利休のために、
四畳半裡に引きずりこまれて以来の豊公は、
もはや以前の豊公ではない。

豊公は内部的に利休に殺されて、
英雄の分際からただの凡爺(ぼんや)にたちかえって、
未見の世界が見られたのは、
小不幸中の大幸福だったのである。

また利休は豊公に殺されたおかげで、
永遠の生命を獲得したのであった。





二柱の天照大神と饒速日尊
 顔の一致!義経はチンギスハン、光秀は千利休、
 そして信長、(光秀)、秀吉、家康
 三つの御魂 
日本統一の神業





今これからの未知も、

その肉体
その心が

知っているがままに。






「 ありがとうございます 」

虹虹虹(^人^)虹虹虹