引き出し② | 稲野川ジョン子の身も毛もよだる心霊話

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低血圧というのがそもそもあまりイメージがわかない。
それにその「手」はなんだ。
「動けるようになってから、引き出しを見たらどうなってる?」
「開いたまま。中を覗いてみても何もない。下着とか靴下とかだけ」
「その手が掴んでタンスの中に引きずり込んだものって、なに?」
「わからない。覚えてない。多分、それを見ている時には知ってたはずなのに、消えた時には思い出せなくなってる」
なるほど。何が無くなったかも分からないわけだ。つまり、この出来事は何も消えたものがなくても成立する。
ふと、以前読んだ本のことを思い出した。そこには、夢は不要な短期記憶を脳の引き出しの奥深くに沈めて、頭の中を整理している最中に再生されるフィルムの断片なのだと書いてあった。
断片の中には脳を活性化させる強い記憶もあり、それらを合成し理解しうるものに再構築されたものがレム睡眠時に上映されているもので、そこからカットされた断片は脳の記憶野を圧迫しないように「忘れられていく」のだと。
それが本当のことかは知らない。ただ俺は「引き出しの手」になにか寓意的なものを感じざるを得なかった。
「もしかして、その手が掴んでいったものって、自分にとって要らないものだったんじゃない?」
二人でボソボソと相談でもするように耳打ちしあってから、瑠璃は首を左右に振る。
「大切なものだったかも知れない。それさえ分からない。ベッドから体を起こして、自分の部屋を見回したら、何か大事なものを無くしてしまったような気がして、とっても悲しくなる」
今聞いているこの話が単純に彼女たちの嘘ではないとしたら、気持ちの悪い話だ。ますますゾクゾクしてくる。嫌いではない。この感覚は。
「それが何度も続けて起こるのか」

「一ヶ月くらい前から。二、三日にいっぺん。あ、でも最近は毎日かも、だって」
俺は少し考えた。カンカンと、使わなかったスプーンの柄で机を叩く。
「本当に何かが部屋から消えているのか、知る方法がある」
二人の少女がこちらをじっと見ている。
スプーンで目の前を払う真似をして、続けた。
「その部屋から、ベッドと引き出し以外、全部外に出す」
少しして、息を吸う音がかすかに聞こえた。
「そうすれば、もし手が出てきて、『何か』を掴んで引き出しに消えていったと感じたなら、その喪失感は錯覚だ、ということになる」
何も部屋になかったことは確認済みなのだから。
俺は、上手いことを言ったつもりだった。我ながら良いアイデアだと思った。けれど、瑠璃が体験したというその不可解な出来事を夢、もしくはなんらかの幻覚だと半ば決め付けていた俺と、そうではない彼女自身との間には大きな発想の隔たりがあったのだ。
瑠璃はふるふると震えながら、音響の耳元に口を寄せる。
「そんなことをして、手がどこまでも伸びてきて、ベッドの上の私を掴んだら…・・・」
ゾクリとした。
空気が張り詰める。しまった。油断した。
経験上、過剰な怯えは本人と周囲の人間に良くない影響を及ぼす。中でも一番困るのは、泣かれること。
「ひどい」
と言って、音響が隣の少女をかばうような仕草をした。そして「どういうつもり」と冷たく言い放ち、俺を軽く睨む。
どういうつもりも何も、俺は協力的に解決策を提出したつもりだった。だがそれは、他人の悩みを真剣に考えないオトコ、という不本意なレッテルを相手方に貼らせただけだった。
また、負い目だ。

この音響という少女には、いいように振り回されているような気がする。
「わかった。それはナシ」
肩を竦める。結局俺は気がつくと、その手の出てくるという引き出しのある寝室で現地調査することを約束させられていた。

その二日後だ。曜日は土曜。
俺は欠伸をしながら自転車をこいでいた。まだ夜も明けやらぬ早い時間。暗い空の、深みのある微妙な色彩に目を奪われながら、微かな肌寒さにシャツの裾を気にする。今日は暑くなるとニュースでやっていたはずなのに。
ガサガサと、妙にかさ張る手書きの地図を苦労して広げ、目的地を確かめる。
なんだ。もうすぐそこじゃないか。
そう思いながら角の塀を曲がると、薄闇の中に浮かび上がる小綺麗な白い三階建てのマンションが目に入った。
おいおい。高そうな所に住んでるじゃないか。高校生の身分で一人暮らしと聞いて、何様だ、と思ったがもしかすると親がかなりの金持ちなのかも知れない。
駐輪場に自転車を停め、階段を上る。向かうは三階の角部屋だ。実にけしからん。
指定されたドアの前に立つが、まだ音響の姿が見えない。ちょうど待ち合わせの時間なのに。
まだ周囲は暗く、朝のこんな早い時間に女性の部屋の前でうろうろしているのは実に気まずい。
辺りを気にしながら念のためにドアノブを捻ってみたが、やはり鍵が掛かっている。
音響を待つしかないようだ。その場でしゃがみこむ。
何故俺はこんなところでこんなことをしているのだろう。そう思いながら憂鬱な思いで額に指をあてる。
要は、寝起きにタンスの引き出しから手が出てくる幻覚を見るという緑の目の令嬢、瑠璃の、悩み解決のための現地調査だ。

完璧を期するならずっと部屋の中で寝ずの番をしていた方がよいのだろうが、初めて会ったうら若き少女の部屋で夜を明かすなど、俺にしても避けたいものがあった。
聞くところによると、目覚ましを掛けなくとも彼女はいつもだいたい決まった時間に目が覚めるのだという。ただ低血圧なもので、そこから起き上がるまでが長いのだとか。
そして俺と音響は、その目が覚める時間の少し前に部屋に行き、実際にその場でなにが起こっているのか確かめる、という作戦だった。
なのに、その音響が来ない。今日のために合鍵を渡されているのはヤツなのに。寝坊しやがったのか。
ドアの前でイライラしながら待つこと二十分。小さな足音とともに、ようやく音響が姿を現した。
「アホか」
思わず毒づいていた。
近づいてくるその姿は、先日のカレー屋の時とほとんど変わらないゴシックな風体だったのだ。
待ち合わせの時間に遅れてまで譲れないのか、その格好は。
問い詰めて言い訳を聞くのも空しくなるだけなので、「いつも可愛いなあ」と嫌味だけ言っておいてドアを指差し、開けろとジェスチャーをする。
音響はロクに謝りもせずに鍵を取り出すと、ドアノブにあてる。
金属が擦れる小さな音とともにドアが開かれ、二人してその中に滑り込む。
玄関からして広い。まずそこに驚く。俺の部屋とどうしても比較してしまう。
暗い中を、半ば手探りで進む。もちろん足音を殺して。余計な物音を立てて、中で眠る少女の普通の目覚めを妨げてはいけないという配慮からだ。
音響が摺りガラスの嵌め込まれたドアの前に立ち、唇に人差し指を立ててみせる。

分かっている、と俺が頷くと向き直り、そっとノブを引いていく。
視界にわずかな光が差す。部屋のカーテンの隙間から薄っすらとした朝日が漏れている。もうすぐ夜が明けてしまう。余計な時間を掛けたからだ。
そう思ったのも束の間、目の前に広がる室内の様子に唖然とする。
ダイニングとリビングを兼ねたような間取りのかなり広い部屋に、所狭しと家具や物が並べられている。
明らかに普段の生活上のものではない。部屋の真ん中や、居住空間を侵すような場所にそれらが置かれていたからだ。
散らかってるのとは違う。強いて言えば、引越しの最中のような印象だ。ただ、普段この部屋にあるらしい家具類はきちんとあるべき場所に収まっているように見える。
要するに、「多い」のだ。どこか別の場所から、余分な家具が運び込まれているのか。
ハッとした。
二日前のカレー屋で話したこと。
『その部屋から、ベッドと引き出し以外、全部外に出す』
却下されたはずの俺の提案を、彼女は俺たちが来るのに合わせて実践してしまったのか。
見ていてくれている人がいるからと、安心して。
嫌な予感がした。その無造作に置かれた家具たちを幾筋かの淡い光線が照らす。
音響が硬い表情で、俺のシャツを引っ張る。その指さす先には別の部屋に通じるドアがあった。
寝室か。
ゴクリと唾を飲み込む。
家具はこの向こうの部屋から持ち込まれたものに違いない。ということは、この向こうには……
音響が静かにドアを開けていく。
後に続く俺の目の前に、薄暗い室内が広がる。手前の部屋よりもカーテンが厚いのか。

それでも、そこには夜明けの空気が満ち始めていた。
ガランとした部屋。
異様な光景だった。
ベッドと、小さなタンスだけ。あとはなにもない。けっして狭くない室内が、さらに広く感じる。
そして、そのタンスの一番上の引き出しが開いている。
寒気がした。どこか遠くから耳鳴りが聞こえ、そしてフェードアウトしていくように消えていった。
ひっ、という息を飲む声がする。
音響が震える指で俺のシャツの裾を掴んでいる。
その視線の先に、ベッドの膨らみがある。その掛け布団の中から小さな顔が覗いている。
その顔はタンスの方を見ている。首を捻った格好で。
目が、開いている。
まるで自分の意思ではないように、周囲の筋肉が強張ったまま目が見開かれているようだった。
その目は、タンスの一番上、一つだけ飛び出た引き出しを凝視している。
異常な気配が部屋を包んでいる。
俺と音響の息遣いだけが聞こえる。
二日前の話を聞いた段階では夢の可能性が高いと思っていた。だが、現実には彼女の目は開いている。
ということは金縛りか。
だが……
今、この瞬間、ベッドと引き出しの間の空間に、俺の目には何も見えないその空間に、彼女は何かを見ているのだろうか。



引き出し③へ続く...



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