○きっかけ

 前回はアール・ヌーヴォーについて学習した。ミュシャの絵に植物モリモリの女性が描かれる意味が分かった。今回は、ミュシャがどんな活躍をしたのかまとめていく。

 

※このブログは私なりにネットや本の情報をまとめたものです。私自身は美術や歴史の専門家ではないので、ふんわりした理解になっています。悪しからず。

 

○ミュシャはもともと挿絵画家だった

 

 ミュシャは中学校時代は聖歌隊に入り、音楽家を目指していた。しかし、声が出なくなったため断念。もともと画才があったようで、この頃も聖歌集の表紙を描くなどしていた。

 その後、舞台装飾画家として働いたり、美術学校で学んだりして経験を積む。本格的に活躍するようになるのは、27歳でパリに渡ってからである。当初は挿絵作家として慎ましく仕事を始めた。

 

○出世作「ジスモンダ」のポスター

 

 ミュシャの人生の転機は人気舞台女優サラ・ベルナールのポスター制作である。1894年のクリスマスの翌日、女優のサラ・ベルナールが印刷所に舞台のポスター制作を依頼した。そのポスターは来年の正月に公演予定の「ジスモンダ」。来年とはいえ、最早来週の話である。急な依頼だったにも関わず、ミュシャが短期間で優美なポスターを仕上げたことにサラは大満足。このことがきっかけとなってサラはミュシャと6年間の専属契約を結ぶことになった。

 

「ジスモンダ」

 

※この話はクリスマス休暇で他のデザイナーがいなかったため、たまたまミュシャが担当することになったという話が有名である。一方でコンペであったという説も存在する。ことの経緯は定かではないが、ミュシャが短期間で仕上げたポスターにサラが大感激したというのは事実であるようだ。

 

 その後もミュシャはサラの舞台のポスターを多数制作することになる。そのうちの「椿姫」「ハムレット」「メディア」「サマリアの女」などの作品を栃木市立美術館のミュシャ展で観覧することができた。私は中でもサラが男役を演じた「ロレンザッチオ」のポスターがお気に入りである。初めてみた時は、男役のサラを描いたものだとは知らず、その色香が漂うデザインの虜になった。

 

○数多くの装飾パネル

 

 サラのポスターで大人気となった後、ミュシャは多くの装飾パネルを製作する。装飾パネルとはリトグラフ(石版画)で大量に刷ることができる絵画のこと。日本でいう浮世絵のようなものに近い。大量に印刷できるため、安い値段で多くの人がミュシャの絵を購入することができるようになった。

 

 ミュシャは装飾パネルの他にも、タバコ用巻紙のポスターや、商品のパッケージなど、人々の日常に関わるデザインを多数手がけた。よって、ミュシャのデザインは大衆化されたみんなのものだったと考えられる。

 

○ふりかえり

 絵画というのは、その昔神様や王様の権威を描くものだったという。産業革命によって、「売れるもの」が求められるようになったことで、絵画もミュシャが描くような「よく目にとまる美しいもの」に変わっていったんじゃないかなと思う。

 それにしても、アール・ヌーヴォーはアンチ産業革命から始まったというのに、その旗手であるミュシャがリトグラフ(大量印刷)で一世を風靡したというのはなんとも興味深い話である。

 

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