「終戦が近づいている時はどうされていたんですか?」
Y「トラックに乗せられ島尻まで行かされようとしていました。まず中将が{命令}と大きな声で言ったんです。
その後、次の言葉を続けて言いました。{命はひとつしか無いんだ。沖縄は全員玉砕だから}と・・・
親が北部に居る者は北部に行って玉砕しなさい。
本土に居るなら我々と一緒に来て玉砕するんだ。
日本の女性として恥ずかしくない死に方をするようにと言われ
自決するための手りゅう弾を2つ私は中将から渡されたんです。
渡す時に信管の抜き方わかるか?と言うので
わからないと言うと
これは引き金を引く時の起爆装置だから
ここを指で摘まんで一気に抜くんだ。
一つは前方に空高く放り投げて5m先くらいに落下させろ。
もう一つは胸にしまえ。
そうすれば自分が跡形もなく吹っ飛んで一気に死ねるはずだと・・・
その説明のあと私は本土行きのトラックに乗せられました。
そのトラックには私の他に2人の女学生が乗っていました。
そしてトラックが名護のななまがりという所に来た時に
空襲が始まったんです。ちょうどトラックが進もうとする前方10m先に爆弾が落下したんです。
そしたらトラックは激しく横転し一緒に乗っていた2人の女学生はトラックから投げ出され
海へと落ちていきました。」
つづく
※玉砕とは・・・玉が美しく砕ける様子を形容したもので
名誉や忠義を重んじていさぎよくお国の為に死ぬこと。
Q:なぜ玉砕という方法をとったのか?
A:当時は戦陣訓と言い、捕虜になることは自国の恥であるということが徹底して教育されており
玉砕することが日常化していたから。日本陸軍は{戦って死ぬ。ただそれあるのみ。}
と言うだけで捕虜になることなど全然教育しなかったのです。
それ故に、ひめゆり学徒隊は集団自決していったと言います。