震災の備えを再確認していたせいでしょうか?東日本大震災のことを思い出すことも多くなっているように感じます。2011年。震災後、明日の暮らしがどうなるのかもわからず支援を必要としている人々が多くいる中、羽生選手は自分がスケートをしたいと思うことに強い罪悪感を感じていらっしゃいました。2018年に書いた記事を再編集して、ご紹介します。
2011年。羽生選手のショーの出演回数は約60回に及びました。ショーの合間に練習時間を持つこと、共演する憧れのスケーターの演技を見たり、アドバイスや励ましをもらうことで、4回転ジャンプやスケートの技術は向上していきました。
2011-12シーズン。阿部奈々美先生が羽生選手のために選んだプログラムは悲愴と映画ロミオとジュリエットでした。そしてファンタジーオンアイスに出演するために来日していたガチンスキー、トゥクタミシェワとの対談も行われました。
その時の対談の様子を通訳として同席していた鈴木ふさ子さんが著書「氷上のドリアングレイ」で記載しています。鈴木さんにとってはこの対談が羽生選手との初対面でした。
羽生選手は初めてとは思えない人懐っこい笑顔を浮かべ、鈴木さんが開いていた通訳ノートに強い関心をもったそうです。
「すごい、それ全部英語!」
そんな風に興奮したそうです。そして対談が進むにつれガチンスキーの格好が夏なのにブーツを履いていることが気になったようで、鈴木さんが日本語から英語に通訳し、別の方が英語からロシア語に通訳して2人に話している時に
「気になる!どうしてブーツか聞いてほしい!」
と小声で頼んできた様子が、無邪気で可愛らしかったそうです。ですが、そんな少年っぽさとは別の側面も。
取材が終わると、羽生選手はスタッフにお礼のメモを渡したり、きちんと挨拶をする礼儀正しさがあったことも。そして後に鈴木さんは気付きます。この対談当時、羽生選手は連日のショーのためにホテルを点々としており、身体的にも精神的にも辛い日々だったはずだったのではないかと・・・・。
世界選手権フリー演技動画→ソース
そして、世界選手権2012フリーの演技では、華奢な少年の身体から溢れ出る凄まじいほどの気魄に、会場にいた人々(カメラマンや解説者までも)が魅了されました。そして羽生選手が演技を終えた後、スタンディングオベーションに包まれた会場。17歳になったばかりの羽生選手に惜しみない拍手がおくられました。
良い結果を出すことが誰かの支えになり
また自分を支える力になること
自分個人のきもちを
捨てなくちゃいけない
そんな思いも強くなったかもしれません。
エキシビジョンでは、東北大震災で亡くなった方々への鎮魂と復興への祈り。さらに応援してくださった方々への感謝をこめてホワイトレジェンドを演じました。
そして世界選手権を終え、仙台駅に戻った羽生選手を慈眼寺の塩沼さんが花束をもって出迎えてくれていたとも言われています。もしかしたら、この時のエピソードなども8月30日発売の家庭画報で語ってくださるかもしれませんね。発売が、今から楽しみですね。
Continue With Wingsで、ロミオandジュリエットを演じられた時、こんな風に話していらっしゃった羽生選手。いつかまた、再演してほしいなって心から願っています。
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