成功への道の最後のステップは苦しみ | フィギュアスケート応援(くまはともだち)

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氷上で華麗で過酷なスポーツ。
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羽生結弦選手の演技で涙がこぼれます。
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地上波ドキュメンタリーやメタバースなどで羽生選手に興味を持たれた方が多くいらっしゃるように感じます。それで、かいつまんで羽生選手の凄さがわかるロシアの記事をご紹介したいと思います。なロシアの記事を取り上げることが多いのは、海外メディアは忖度が一切ないから「本当に書きたい!と思ったから書いている」記事だからということもあります。

「成功への道の最後のステップは苦しみです。」
羽生結弦はいかにしてスーパースラムへの道を歩んだか?

2021.0208著者:アンナ・コロブコワ

世の中には不可解なことがたくさんありますけれど、羽生結弦という存在もそのひとつといえるでしょう。彼の演技を一度でも見たことのある人なら、何をいっているか理解できるはずです。

リオネル・メッシがサッカー界の宇宙人なら、羽生結弦はそのアルゼンチン人よりもさらに遠い、未知の惑星からやってきたフィギュアスケート界の宇宙人なのですからね。

 

彼の偉業の一例を挙げてみます

  • 
ショートプログラムで 100 点を獲得した最初のスケーター。


  • 4回転ループを成功させた最初のスケーター。


  • 4回転トーループとトリプルアクセルのコンビネーションを成功させた最初のスケーター。


  • フリープログラムの後半で 3つの4回転ジャンプを成功させた最初のスケーター。


  • 4回転トーループ、オイラー、トリプルフリップのコンビネーションを成功させた最初のスケーター。

 
  • グランプリファイナルで4年連続優勝した初のスケーター。


  • スーパースラムを達成した初の男子シングルスケーター。


  •  オリンピック2連覇を達成した66年ぶりのフィギュアスケーター。



羽生結弦は4歳でフィギュアスケートを始めました。しかし、それは勝利のためではありませんでした。喘息と診断され、医師たちはスポーツをすることが彼の健康に良い影響を与えるだろうと助言し、姉がフィギュアスケートを習っていたので、その練習しているスケートリンクについていったことがスケートを始めるきっかけとなりました。

羽生が初めてスケートリンクに上がった時、その様子をみて両親だけでなくコーチも驚きました。普通だったら数十回は練習しなければできないことを、羽生はすぐに成功させたからでした。

フィギュアスケートの才能が感じられたので、それを機会に羽生はコーチの指導の下で練習を始めます。さらに独自に技術の向上に取り組むようになりました。

彼はトップスケーターの演技のビデオを探して、繰り返し見ては分析し、詳細に研究しました。そしてコーチの勧めで、観察したことや気づいたことを書き留める練習ノートを書き始めます。

2010年。羽生は世界ジュニア選手権で優勝しました。
しかし翌年の2011年、故郷の仙台でひどい地震が発生します。
その地震は羽生の練習中に起きました。

羽生はその日のことを今でも詳細に覚えています。氷がどのように揺れたか、貸しスケート靴の棚がどのように揺れて落ちていったたか、一緒にリンク上にいた仲間に縋って泣いたことなど。そして彼らは四つん這いになって避難し、スケート靴のまま直接コンクリートの上を歩きました。外に出た時にはブレードはボロボロになっていました。そしてスケート靴を脱ぎ、雪の中でしばらく立ち尽くしました。

天井や、氷の下を通っていた排水パイプは壊れました。破壊されたスケートリンクの建物には水が浸水しました。

それから羽生と家族は避難所で4日間過ごしました。彼は無力でした。ただ天井を見つめて、フィギュアスケートを続けていいかと真剣に悩みました。なぜ千年に一度という巨大地震に直面してしまったのか、スケートをやめてボランティアをして故郷を支えるべきではないのかとも考えました。

その10日後、羽生は氷上に戻りました。前のコーチの都築が住んでいた神奈川県東部のスケートリンクが練習場所を提供してくれたからでした。震災からそれほど時間が経っていないように見えましたが、1週間半で、羽生の体格はほっそりと縮まったように見えました。しかし徐々に体重も戻り、トリプルアクセルも戻ってきましたが、4回転ジャンプを跳ぶにはまだ体力が足りていませんでした。

2011年、日本で開催されるはずだった世界選手権は急きょモスクワに変更となりました。世界ジュニア選手権で羽生に敗れたロシアのアルトゥール・ガチンスキーが世界選手権シニアとしてのデビュー戦で3位となりました。ガチンスキーは両方のプログラムで4回転ジャンプを決めました。そのフリープログラムをTVで見た羽生は「彼はすべてのジャンプをとても上手に決めたのに、なぜ自分は4回転ジャンプさえも決められないんだろう」と考えて眠れなくなりました。そして、これが羽生のモチベーションにもなりました。

その1年後、2012年。羽生はニースで行われた世界選手権で銅メダルを獲得しました。そして、その後ブライアン・オーサーの指導の下、ソチオリンピックで勝つためにカナダに拠点を移しました。ソチの地に降り立った時、羽生はグランプリファイナルの優勝者という立場でしたが、このオリンピックでの明確な優勝候補とは思われていませんでした。なぜなら、エフゲニー・プルシェンコが棄権しても、3度の世界チャンピオンのパトリック・チャンが最大の金メダル候補と考えられていたからでした。
そしてフリープログラムでは2人ともミスがでました。ですが技術点では羽生の方が上回りました。そ

して彼は史上初の日本人男子シングルスとしてオリンピックで優勝し、1か月後の世界選手権では金メダルを獲得したのです。

そして2014年の中国杯。6分間練習中に、羽生と中国のハン・ヤンが衝突するという予期せぬ出来事が起きました。その結果、脳震盪ではないものの、ひどい打撲傷、そして膝の損傷などが判明します。ハン・ヤンも痛みに苦しみましたが、2人とも皆の予想に反して棄権をせず、フリープログラムを滑りきりました。
羽生は5回ジャンプで転倒しましたが、予定していた演技構成を実行し続けました。よろめきながらもキス・アンド・クライへ座り、得点を見て泣き出しました。結果は2位となりました。立つことさえ困難な状態で最も難しいジャンプに挑戦する人への激励がこめられていたのかもしれません。
この行為を無謀だと言う人もいるかもしれませんが、羽生結弦は決して諦めない本物のサムライなのです。翌月、グランプリファイナルへの出場権を獲得。ファイナルで優勝を果たします。

そして平昌オリンピックの直前、再び医師の診察が必要となりました。練習中に右足首を負傷し、医師からはオリンピックのことは忘れたほうがいいと言われました。
ですが、彼はギリギリまでリハビリに専念してから、韓国に飛び、そこでオリンピック2度目のチャンピオンとなりました。

しかし足首の状態が悪化したため、世界選手権への出場はできませんでした。その後、新シーズンの準備が整い、モスクワのグランプリではショートプログラムで新世界記録を樹立します。しかし、その後、新たな問題が起きました。練習中に再び右足首を負傷、ですがトーナメントから棄権はせず、怪我した足でフリープログラムを滑り優勝します。羽生は松葉杖をついてメダルセレモニーに出席しました。ロシアと彼を温かく迎えてくれたファンへの敬意から棄権はしなかったと羽生は言いました。

この後、羽生は回復に全力を尽くし、日本で行われた世界選手権で素晴らしいパフォーマンスを見せました。

「大会前には怪我から回復することができました。そのことは自信をもっています。そして、成功への道の最後のステップは苦しみだと思います」そう羽生は世界選手権を前に語っていました。

2020年2月、羽生は4度目の挑戦で四大陸選手権で優勝し、スーパースラムを獲得しました。男子シングルスケーターでは初の快挙でした。

羽生は誰もに賞賛されるだけの化石にはなりたくない、そう語っています。今も新たな目標を定め、挑戦を続けています。

 

ざっくり意訳 省略編集訂正してご紹介終わり

記事の内容には一部、事実とちがう部分もあったので訂正してまとめています。ですが、何度も何度も襲いかかる困難の中であきらめずに、前を向いて挑戦し続けている姿。

こんな今だからこそ、感じてほしいなって思いましたので、ご紹介しました。

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