羽生結弦にとって、東日本大震災と津波の記憶は絶望を思い出となりました。その後、暗闇でみた輝く星が震災からの希望となりました。
2011年3月11日。16歳の高校生だった羽生結弦。彼は故郷の仙台で練習していた時にマグニチュード9.0の地震に遭遇、リンクは激しく揺れました。
羽生とその家族は住む家に被害を受けたため、避難所で4日間過ごしました。4人で2畳(約3.2平方メートル)という狭いスペースでした。
震災後の初めて過ごした夜。絶望の中、羽生は「スケートをする時期ではないと思った」と語りました。
ホームリンクは一時的に閉鎖され、その間、都築章一郎コーチの招きで約330キロ離れた横浜の新しい練習拠点に移ります。
震災から数週間後、神戸市で開催されたアイスショーに出演した際、羽生は前を向くきっかけを見つけました。
神戸は1995年にマグニチュード7.3の大地震から復興していました。羽生は神戸と同じように「仙台もできる」と思いました。羽生結弦のパフォーマンスは、観客からスタンディングオベーションを引き出しました。その時、羽生は「皆さんの期待に応えるために、スケートで最善を尽くすことです」と語りました。
羽生は6か月間で約60回のアイスショーに出演し回数をこなすにつれて力をつけていきました。
震災から1年後、羽生は世界選手権デビュー戦でで銅メダルを獲得します。
仙台で羽生を指導していた田中総司は、元生徒の変身に驚いた。
「彼のジャンプの距離は約50パーセント増した」と彼は言いました。
「何が彼をそんなに変えたのだろうと思いました。」
羽生は、既存の喘息から腹部の手術、右足首と左足の怪我まで、いくつかのキャリアの困難な時を克服し2014年と2018年にオリンピック金メダルを獲得しました。
それでも10年前、困難な時に、避難所で過ごした日々の記憶は鮮明なままです。
2019年12月イタリアのトリノで開催されたグランプリファイナルで2位に終わった後。羽生は震災後に横浜で身を寄せていた間、サポートしていた女性に感謝をしました。
「彼(羽生)は『このことを言うのは少し遅いですが、震災時にサポートしてくださったことに対して本当に感謝しています』と言いました。」と佐藤操は羽生が言ったことを思い出しました。
「彼(羽生)はマナーの良い上品な人です。私は彼がどこにいるのかを知るために、彼がしなければならなかったすべてのことを考えました。」
昨年4月に非常事態宣言が発令され、コロナウイルスの大流行により東京オリンピック・パラリンピックが1年間保留された際、羽生は日本に希望のメッセージを伝えました。
3.11の時の夜空のように、真っ暗だからこそ見える光があると信じています
彼は日本オリンピック委員会がツイートしたビデオで語りました。
健康リスクにより羽生はカナダの練習拠点には飛べず、彼が望んでいたほどの練習をすることができませんでした。それでも昨年12月に5年ぶりとなる全国選手権での優勝を果たしました。
そして今、北京冬季オリンピックまで1年もない今。2011年から羽生の軌跡は、2度のオリンピックチャンピオンの導きの光でもあり、警告の物語でもあります。
「繰り返しになりますが、スケートをできることが当然のことではないということを痛感しています」と羽生はそう語りました。
(ざっくり意訳終わり)
佐藤操先生にトリノでそんな風に話していたんですね。どこまでも感謝のきもちを忘れないのだなと涙がでてきてしまいました。田中先生もあまりにも変化していた羽生選手に驚いたと話していました。どれだけ震災が凄まじい悲しみであったのかを感じます。変わらずにはいられない、たくさんの苦しみや困難を超えて。
だからこそ、スケートができることは当たり前じゃない。だからこそ、全力で頑張っていらっしゃるのだなと思い。ただただ、その、まっすぐな生き方に、26歳で無私の境地にいたるまでの葛藤や苦悩や孤独を想像しては涙が勝手に溢れてきます。本当に頑張っていらっしゃった日々だったと。そしてきっと、共に生きていく覚悟なのだと。その思いを感じて泣いてしまうのです。
たくさん幸せになってほしいです。
きっとなれます✨心から願っています✨
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