プル様ワールドツアー✨ | フィギュアスケート応援(くまはともだち)

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氷上で華麗で過酷なスポーツ。
がんばるすべてのスケーターに敬意を✨⛸✨
羽生結弦選手の演技で涙がこぼれます。
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記事は必要に応じ随時修正・変更を行っていきます。

プル様ワールドツアー✨
日本へはプリンスで1月来日予定ですね✨
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せっかくですので、案外知られていないプル様の歴史を振り返ってみたいと思います。
意訳
エフゲニー・プルシェンコ伝記ソース
※一部ウィキペディアから補足していますソース
 彼はハバロフスク地方のウルガル村で生まれました。家族にはヴォルゴグラードからシベリアにBAM(鉄道)を建設するために出稼ぎに来た父ヴィクトル・ヴァシリエヴィチと母タチアナ・プルシェンコ、そして6歳離れた姉がいます。
父親は煉瓦工と大工をし、母親は警備員として働き、その後煉瓦工をしていました。
住まいは貨物列車を改造したトレーラーハウスで暮らしは貧しく。虚弱体質な子どもだったプルシェンコはシベリアの厳しい寒さに耐えられず1歳3ケ月の時に肺炎にかかり、数ヶ月入院。そのため、家族は彼が3歳の時に気候が温暖なヴォルゴグラードへ戻りました。
病気がちな男の子だったので、母親は働かずに、愛情深く子供たちと一緒に過ごしました。 
4歳の時、プルシェンコは医師のすすめでスケートとロシア民族舞踏を習い始めました。 始めて間もないころはトロリーバスの中で具合が悪くなりましたが、通ううちに身体がどんどん強くなっていきました。彼の最初のトレーナーはタチアナ・スカラでした。  
2年後、コーチ ミハイル・マコヴィーエフのグループに加わりました。  
7歳で初めてクイビシェフに行き1位で優勝。
11歳でスポーツの達人になりました。
1993年、ソ連崩壊により通っていたヴォルゴグラード唯一のスケート学校が閉鎖。
これを機に両親は彼に普通の暮らしをすすめました。しかしミハイル・マコヴィーエフの強い勧めで、サンクトペテルブルクアレクセイ・ミーシン コーチの元に単身で移住。
アレクセイ・ウルマノフやアレクセイ・ヤグディンと一緒に練習をするようになりました。 
しかし当時プルシェンコが住んでいた共同アパートは、麻薬売買や売春などが日常的に行われていた治安の悪い場所。みかねたミーシンコーチが自宅や振付師の家に住まわせました。
1年後、ヴォルゴグラードから母親がやってきて一緒に暮らすようになりました。しかし 母親には、労働許可がなく。生活はたいへん困窮しました。2人は父親からの仕送りでとても控えめな生活をしていました。  
13歳で彼は最初の賞金を受け取ります。
1994年、14歳で世界ジュニア選手権で金メダルを獲得。報奨金1万ドルを手にしました。
以後は一家の稼ぎ頭となります。
1996年、16歳になると以前から貯めていた賞金で、家族で暮らすためのマンションを購入。離れて暮らしていた父親と姉夫妻をヴォルゴグラードから呼び寄せました。
2000年、ミーシンコーチが教授をつとめるレスガフト名称サンクトペテルブルク国立体育アカデミーに入学(専攻:フィギュアスケート)。
2001年、18歳で世界チャンピオンに。
 プルシェンコはジャンプの最も複雑な要素と組み合わせを実行することで有名です。 いくつかのエレメンツは彼にちなんで命名されています
例えば「Plushenko Cascade」や「Plushenko Ring」。
2002年、ソルトレイクオリンピック銀メダル
2004年からサンクトペテルブルク国立技術経済大学(ENGECON)観光サービスマネジメント学部で校外生として学び2008年に修業。
 2005年、彼は深刻な膝の怪我を負いミュンヘンで手術を受けました。 しかし、何とか回復。2006年、トリノでオリンピック優勝。
勝利後は怪我の治療のためタイムアウト。
 2007年、サンクトペテルブルクの立法議会の副議長に選出。
 2008年、「Believe」ジーマ・ビランのユーロビジョン・ソング・コンテスト2008のパフォーマンスに参加。ハンガリーヴァイオリニストエドウィン・マートンも登場しジーマは優勝。
 2009年、フィギュアスケートの大会へ戻り、8回目のロシアチャンピオンになりました。
 2010年、ヨーロッパチャンピオン、バンクーバーオリンピックで銀メダリストになりました。
その後は試合には出ず、治療に専念。
またフレグランスOriflameの広告に参加。
 2011年、9回目のロシア選手権で優勝し、年間最優秀選手になりました。 
翌年、ヨーロッパ選手権で優勝。
2012年11月、椎骨ヘルニアの手術。
2013年、10回目のロシアのチャンピオンに。
2014年のソチオリンピックへ
シングルスケートで3つのオリンピックメダルを獲得した唯一のフィギュアスケート選手です。 
合計で、彼は金60個、銀15個、銅4個のメダルを獲得しました。(ソチオリンピック前までの記録)
意訳終わり
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いかがでしたか?プルシェンコさんの2014年までの伝記がロシア記事にありましたのでご紹介しました。羽生結弦選手と共通していることがいくつもあって驚きます。
家族構成、病気がちだった幼少期、スケートのために家族と離れて過ごす日々。
度重なる栄光と怪我。
羽生結弦選手が幼い頃に話していた
金メダルを獲得したら、苦労をさせていた両親のために、ショーでいっぱ稼ぎたいという発言も、プルシェンコさんが両親を大切にした姿を知っていたからかもしれません。
実際には東日本大震災で、羽生結弦選手はもっと多くのものを抱え、たくさんの希望の星となり、違う道を進んでいるように感じます。
それでもフィギュアスケートを心から愛する2人。いつか、お互いが主催するワールドツアーに出演しあう未来が必ず訪れる。そんな日がきますように、それまで健康で幸せでありますようにと心から願っています✨
ラヤさんインスタストーリーにちらっと✨
お元気そうで嬉しい✨ソース

お写真などありがたくお借りしました✨

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