その後、東京市立深川病院に勤務
(氏名が書かれているところに付箋貼付)
東京が都になったのは1943(昭和18)年7月1日
辞令は市を都に修正して使っています
1945(昭和20)年3月10日は東京都立深川病院に勤務していた
- 『東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう)
- 〔昭和20年3月10日(1945年)〕0時8分、B29は最初の爆弾を東京・深川地区(いまの江東区)に落としました。B29は目標とする場所のまわりに火災を起こして火の壁をつくったあと、逃げまどう人々にねらいを定め、超低空で大量の爆弾を落としていきました。そのぎせいの多くは女の人やお年寄り、そして子どもたちといった武器をもたない人々でした。
2時間あまりの空襲で約百万人が家を失い、亡くなった人の数は八万とも十万ともいわれ、正確な数は今もわかりません。』 - 『』内は総務省の「戦時中の生活等を知るための用語集」から引用しました
- 母は防空壕に飛込み熱さに土を手で掘って
- 防空壕の入り口に張り付けて生き延びたと聞きました
- 『罹災証明書(りさいしょうめいしょ)空襲で家を焼かれた人は、それを証明する書類を見せると鉄道の乗車券を優先して発行してもらえたり、避難先でも配給がうけられました。戦争中は食べものや日用品をお店で自由に買えなかったので、焼け出されるとすぐに罹災証明書が必要でした。
役所も空襲で焼けてしまった町では、焼け跡に机を並べて証明書を発行しました。なかには戸籍簿も燃えてしまって確認する方法がないまま、申し込みに来た人のいうとおり、住所、名前、年齢、家族の数を書いて渡すこともありました。』 - この証明書にある
- 東京都京橋区長 岸 壽喜惠氏は1941年当時 東京市経済局消費経済部長に同名が有ります
- 同一人でしょうか
- 朱印は右から
- 「東京都民生局長の印」
- 「東京都l京橋区長の印」
- 「東京都民生局長の印」
- 欄外に「救護要員に付き緊急帰〇を要す」と書かれている
- 〇の字は読めません・・・
- 深川区の「救護」腕章
- 朱印は「警視庁警務部警防課」となっています
- 裏側には管理番号が付されています
罹災証明書がないと食料はもとより
鉄道の切符も買えなかったようです
地方へ疎開或いは非難する方は・・・手続きをして
と、書かれています
そういった管理が未だできていたんですね
鉄道の乗車券を購入するときは左の欄に必要事項を書き込み
と、あります
「往復」とありますが
母は未だ東京へ帰ってくるつもりでいたのでしょうか?
100歳の母に聞いても
なぜ西武線布袋駅などから乗車したのか等
今となってはわかりません
しかし、母は良くも生き延びてくれたものです
大正、昭和、平成、令和と元気です!
当たり前のことですが戦争は二度と行ってはいけません
病院の住所は「深川区牡丹町2-4」 今の江東区牡丹2丁目でしょうか