定年帰郷し卓球再開・・・・・
第二の人生は順調な滑り出しだった、
「都留」さんから・・・・・
NPO法人「成重」会長から・・・・・
その他、複数の卓球選手から・・・・・
定年で帰郷した「渡辺」という男が優勝した・・・
この噂が瞬く間に・・・・・
<豊後高田市卓球連盟>に届くこととなる・・・
丁度その頃・・・
<豊後高田市卓球連盟>はキッズ選手を育てよう
という構想をもっていた・・・・だがコーチが集まらない、
<豊後高田市卓球連盟>の中心選手は教師や、
若手が多く、仕事の都合でコーチは無理だった、
そこで・・・
年中、日曜日の「都留」先輩と私に監督とコーチの話が来た
大好きな卓球で、故郷の<卓球連盟>に貢献できるのであれば
私にコーチの話を断る理由などない、
そして・・・・・後日・・・
<豊後高田市卓球連盟>の会長と支部長と幹部と・・・
監督候補「都留」先輩・・・コーチ候補「夕貴」が集まった
<県卓球連盟、豊後高田市、>会長「彦エ」氏(前列左端)
<ジュニア監督>「都留」(前列真ん中)
<ジュニア、コーチ>「渡辺」(前列右端)
<県卓球連盟、豊後高田市、支部長>「大野」(後列右端)
あと三名コーチ(連絡とれず顔伏せ)
私は早速動いた・・・・・
地元大分の地方紙<大分合同新聞社>
下記の賞状の末尾<大分合同新聞社>後援なので
こうして賞状も出してくれます
(私の名前、あえてブログ用に夕貴に修正してます)
<大分合同新聞社>は大分県下、
約20万部の発行部数があり
<売上高>は約100億円・・・
【威容を誇る・大分合同新聞社、本社】
当然ながら我が<豊後高田市>にも
<大分合同新聞社・支局>はある
私はこの支局に単身乗り込んだ
(ヤクザの出入りではありません)
支局長は若い男性だった
ブログ掲載許可を頂いていませんので
顔と名前は伏せさせて頂きます、
「支局長 近々ジュニアの卓球クラブを立ち上げるんですが
記事にして頂けませんか?」
「わかりました何点かお話聞かせてもらえますか」
「もちろん」
若い支局長は約束通り新聞記事にしてくれた↓
この新聞記事により
一気に<高田ジュニア卓球クラブ>への
加入申し込みが相次いだ
・・・だが・・・
この事が大きな波紋となって!
私を苦しめる事となる!
【好事魔多し】
あの新聞記事の「渡辺」って何ものか」?・・・・・
このような声が豊後高田市の卓球関係者
(多くの一般選手からも)声があがった!
なんで・・・
昨日、今日、加入してきた新入りが
<豊後高田市>の代表みたいな立場で新聞に出てるんだ!
<豊後高田市>の卓球界を代表する
30・40・50代の名前も実力も充分な選手たちの
声なき声の無言の圧力が私を襲ってくる・・・
私は窮地に立たされた・・
そんな四面楚歌の私に、
救いの手を差し伸べてくれたのが
<大分県卓球連盟、豊後高田市、支部長>「大野」氏だった!
この「大野貴司」 こそ誰あろう・・・
<大分県卓球連盟、豊後高田市、支部長>の要職にあり
<豊後高田市の卓球界>を牽引し統括し推し進めている
影の実力者(フィクサーなのだ!)
<フィクサー>といえば、陰で権謀術策を企てるイメージだが・・・
「大野貴司」はそのような愚か者ではない、
「彦江」会長を無視して暴走するようなことはない、
私の人間性を誰よりも理解し気に入ってくれ・・・
・・・以来・・・毎晩・・・
「都留」さんと私を飲みに誘ってくれた
そして二人きりの話の中で・・・・・
「渡辺さん・・・コーチはしんどいでしょう
渡辺さんのために隣の市に私の知り合いがいて
そこもジュニア卓球クラブを立ち上げるらしいから
私が進言して渡辺さんをそこの監督に推薦しましたから」
「そうですか何から何までありがとうございます」
かくして私はK市のジュニア卓球クラブの
監督をやる事となった!
「大野」支部長の構想はあくまで<高田ジュニア卓球クラブ>がメインであり
私も<K市>の<ジュニア卓球クラブ>の練習日以外は
<高田ジュニア卓球クラブ>のコーチである事は肝に命じている、
まだこの頃は<硬式卓球>で<ラージ卓球>は選択肢にはなかった。
<監督業>と<コーチ業>に加え
私自身は<豊後高田市>の60代の県体選手としての練習もある・・・
定年で老後はゆったりと過ごす計画ではあったが、
定年後の日々の方が多忙となってきた・・・
まさに本末転倒>である!
だが老後を、ぼ~っと過ごすなど私の選択肢にはもとよりなかった、
私のようなぐうたら人間はこれぐらいの多くの負荷が
肩にかかっている方がいいのだ!
一週間が卓球漬けとなってきた!
私自身の県体選手としての練習は<高田中学>の体育館だ、↓
その他に<真玉中学>の体育館での練習もある、
この<真玉中学体育館>は
一般の健康卓球の素人さんも練習に来ていた・・・・・
この事が私の人生に、
卓球と同様、もう一つの新たな出来事が生まれてくる事となる。
・・・それは・・・後述する事として・・・・・
私自身の県体選手としての練習は夜である・・・
昼間はジュニアのコーチとなる
下記のジュニアは年長組(4年~5年)・・・
彼女たちも今では25歳前後となっているだろう
この頃の面影はないだろう
私のブログ読者の方は過去記事でおわかりと思いますが
私はラリーを重要視しています、
その理由はまさにこの<ジュニア>コーチ時代に培われたものです!
5歳や6歳の子に卓球の理論を長々と説くコーチがいるが
私は当然理論の大切さは理解しているが・・・
何もわからない幼い子供には、
まずラリーが続く楽しさを教える事を優先させた、
それぞれ教え方は千差万別・・・
・・・しかし・・・
一時間近く・・・ああだ・こうだ・と・・・
理論ばかり聞かされた幼い子は泣いて帰り
翌日から二度と来なかった!
一方私が担当するジュニアは・・・
私が打ちやすいボールを一生懸命苦労して返してやるので
ラリーが続くので楽しくてたまらない様子で・・・
コーチもう一回・もう一回と、やめたくないのだ!
この頃のコーチ業で【百聞は一見に如かず】を身をもって体験する事が出来た!
そうしてラリーを続けていたら・・・・
どうやって打球すればいいのか理論もわかってくるのだ!
その都度、くどくど言わず一言で重要な理論をポンと言う、
そして、またラリーを続けてゆく・・・
私のラリー最優先の信念はこのジュニアコーチ時代の賜物である!
❶<高田ジュニア卓球クラブ>のコーチ・・・
そして❷<00ジュニア卓球クラブ>の監督・・・
そして❸<豊後高田市60代の県体選手>・・・
・・・としての過酷で多忙な日々がもう走り出していた!
私は<津軽三味線>や<ギター(エレキ・クラシック)>の
練習を定年後は心ゆくまで、やりたい気持ちだったのだが・・・・・
・・・もう そんな悠長な事など いってる ばやいじゃなかった!
・・・ところが・・・
<私の定年後、超多忙サプライズ>
はこれで終わりではなかった!
「大野貴司」氏より・・・再三再四の依頼・・・・・
・・・・・今度は何の依頼なのか・・・
「渡辺さん高田中学女子卓球部のコーチを手伝ってくれる」
<豊後高田市卓球界>に定年後・・・彗星のように現れ・・・
・・・いつの間にか・・・その中枢部に・・・
一席を確保するに至っていた私だが・・・
これらは、仮の姿・・・張りぼて・・・であって・・・
全ては「大野貴司」氏の強大なバックアップのお陰であった!
私自身は<豊後高田市卓球界>に
まだ何の貢献もお返しも出来てはいなかった!
「いいですよ」
私は「大野貴司」氏の要請に応じた!
こうしてまた、一つ私に新たな役目が生じた・・・
❶<高田ジュニア卓球クラブ>のコーチ・・・
❷<00ジュニア卓球クラブ>の監督・・・
❸<豊後高田市60代の県体選手>・・・
➍<高田中学女子卓球部、コーチ>
早速「大野貴司」氏から・・・
<高田中学女子卓球部・監督>を紹介される
<高田中学女子卓球部・監督>「財前先生」は・・・
いろんな会話の中で・・・わかったのだが・・・
なんと私の家の近くに嫁に来ていた!
二階に上がり窓を開ければ・・・
「財前先生」のお家が見える距離なのだ!
<高田中学女子卓球部>・・・「リオ」と「モモ」
❶<高田ジュニア卓球クラブ>のコーチ・・・
❷<00ジュニア卓球クラブ>の監督・・・
❸<豊後高田市60代の県体選手>・・・
➍<高田中学女子卓球部、コーチ>・・・
冗談抜きで、大変な激務を背負い込んだ!
そして・・・話はこれで終わりではない!
更に大変な依頼が私にきた