神戸へ来てからの「田岡」は
更に無口な子供になっていた
たえず他人の顔色をうかがい
相手の心を読み取り
自分自身で出処進退を考える・・・
思えば可哀相な子供である!
これも運命であるなら仕方の無い事でもある
「河内和四郎」の食卓には毎日
ヒジキとニンジンの煮付けが出る
この為「田岡」は後年ヒジキとニンジンが
大好物になるが
この時は嫌いで嫌いで仕方なかった
しかし嫌いなどと言える訳が無い
噛まずに一気に飲み込んでいた
「河内和四郎」も妻「サト」も夫婦共稼ぎで
家計は楽なはずであったが
「河内和四郎」は酒びたりで
仕事もよく休む金がなくなると
また仕事に出るという自堕落な生活である
一方「サト」は女工として働くが
自分の身の回りを飾り立てる事が優先して
「田岡」の学用品や授業料さえも出し渋った
当時は小学校でも授業料は必要だった
その授業料も「明日にしな」と
「サト」はつれない返事で出さない
半年ほど授業料が溜ってしまい
「田岡」は学校へ行きづらくなった
そんなある日
「河内和四郎」から
酒を買って来いと言われた
買った酒を水で薄めて少々の金を浮かせ
授業料に充てようと画策した、
しかし酒の好きな
「河内和四郎」に
バレない訳がない
「田岡」はこっぴどく怒られ殴りつけられ
家を追い出された
日が暮れてきた近くに鶏小屋があって
そこへもぐりこみ一夜を過した
周囲の家々からは夕餉の楽しい
ひと時が繰り広げられているのだろう
お腹は空いているがどうすることも出来ない
思えば「田岡」には家庭の団欒の記憶は無い
父の顔を知らず幼くして母を亡くし
おどおどと叔父夫婦の世話になって
いつも日の当たらぬ
裏通りばかり歩いてきたような気がする
「田岡」には家庭のぬくもりが
無性にうらやましく思えた
<早く大人になりたい、
大人になったら、うんといい家庭をもつんや、
みんなからうらやましがられる
いい家庭をもつんや働きたい
早く大人になって働きたい>
地獄の日々の中・・・
「田岡」は10歳小学校4年生になっていた
新聞販売店に行って断られたが
粘りたおして
お願いしまくってオーケーを取り付けた
毎朝4時に起き小学校4年から
高等科(今の中学)を卒業するまでの5年間
元日以外は休むことなく続けた
80軒の配達を終えると7時
朝食をかっこみ学校へ走る
学校が終わると夕方5時から
夕刊の配達があるから遊んでいる暇は無い
雪の日の配達は辛い手は凍え
足は滑って進まない裸足になって
雪を踏み分け
新聞の重みが泣きたいくらい肩に食い込む
何もかも投げ出したい
しかし「田岡」は肉体的な辛さは耐えられる
心の辛さから比べればはるかに軽いものだ
「田岡」はなんとしても独立したかった
朝夕の配達の傍ら購読の新規勧誘もして歩いた
それによって得られる歩合も心の励みになった
そうして得た金は全て食い扶持として家に入れた
「河内和四郎」は「田岡」が独断で
新聞配達を始めたことをとがめる事もなく、
褒める事もなく、ねぎらう事もなく
「田岡」が差し出す金を受け取り
無造作に財布に入れる
「田岡」も以前と違い・・
ただで食事を頂くのではなく
お金を入れているので気持ち的には
随分と楽になっていた
堂々と食事をすることができた
満足感でいっぱいだった
号外が出ると販売店の主人が
学校へ呼びにくる販売店の主人も
「田岡」が真面目で一日も休まず
雨の日も雪の日も台風の日も
仕事を責任持ってキチンとやるので
信頼感抜群なのであった
学校側も心得ていて
「田岡また大事件やすぐ行ってやれ」
「ハイッ」
級友たちのなんともいえない視線を背に受け
教室を出るときの爽快感は自分ながら
しびれてしまう良い気分である
「田岡」の得意学科は体育・図画・工作であった
朝夕の新聞配達で脚力はつき
めきめき逞しくなっていた
背は低かったががっちりした体格で
胸幅は子供とは思えぬほど
厚くたくましくなってた
学校でももう暗い無口な子供ではなかった
喧嘩もめっぽう強くなっていた
5年生の時校内一の悪にからまれた
土壇場で「田岡」は生まれて初めて立ち向かった
勝負はあっけなく終わった
「田岡」は相手を一撃で叩きのめしていた
この事が後々まで妙な自信として残った
以来「田岡」は誰と喧嘩をしても
負ける気はしなかった
無口でむっつり屋の「田岡」は
一躍中央に躍り出た
校内で「田岡」の名を知らぬ者はいなかった
高等科へ進学すると同時に
ガキ大将を束ねる総大将の席が待っていた
大正14年初代山口組・組長「山口春吉」は隠居し
長男登が23歳の若さで二代目の跡目を継いだ
その年の春「田岡」は「浜山小学校」6年を卒業し
「兵庫尋常高等小学校」へ進学していた
高等科は二年制で義務教育ではない
「田岡]は新聞配達を続けながら高等科へ進んだ
同級生に「山口秀雄」がいた
初代山口組・組長「山口春吉」の次男であり
二代目の登の弟にあたった
色白でいつも教室の隅にいる温和な少年であった
時代は昭和に入っていた昭和2年
「田岡」は兵庫の高等科を卒業して
「川崎造船所」の旋盤工として入社した
ある日、隣の同僚が体調が悪く
仕事を手伝っていたら
現場主任が「田岡」の胸倉をつかみ
「余計な事をするな」と怒鳴りつけた
「田岡」の正義感が爆発した
現場主任を殴り倒した
さすがに翌日から出社しずらくなった
謝罪などする気はなかった
弁当持って家はでるが出社せず
街中をぶらぶらしていた
「おうー田岡やないか」
山口秀雄であった
「おぅ」
奇遇であった
「今 どないしてんねん」と聞かれて
「田岡」は言い渋った
「まっそこらでコーヒーでも飲もうか
映画でも芝居でも見たいものがあれば
言ってくれここらの小屋はみんな
山口の顔やからな」
山口秀雄は白い歯を見せて笑った
山口秀雄は当時日の出の勢いにある
山口組二代目「山口登」の弟として
羽振りをきかせ 金も持っていた
だが山口秀雄は生来の温和な性格から
極道にはなれず後年は堅気として
中央卸売市場の運搬業に転向した
「そうか現場主任殴ったんか・・・」
「まっなんとかなるわ」
「田岡」は強いて笑ってみせ
冷えたコーヒーをすすった
「どや、いっそ わしの家にこんか」
「田岡一雄」の人生の大きな転換期が
ここに芽生えようとしていた
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