「鶴田浩二」ヤクザに襲われ十一針縫う重傷 | なんでも書いちゃってます

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昭和27年の暮れも押し詰まった ある日
「田岡一雄」は自宅に「鶴田浩二」の
マネージャー「兼松康吉」の来訪を受けた

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この頃・・
「川田晴久」の苦境を救ったことで
「田岡一雄」の名前は芸能界に知れ渡り

「美空ひばり」や「田端義夫」「高田浩吉」
「伴淳三郎」「清川虹子」等々の
当時の大スターが
 

「田岡一雄」の周囲に集まりだしていた
(これが後に<神戸芸能社>
設立へとつながっていく)

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「兼松康吉」は「水之江滝子」の亭主である
 

「兼松康吉」の口上は大阪千日前の
大劇の正月公演「百万ドルショー」に
「鶴田浩二」が出演するのでよろしく、
という挨拶だった

「鶴田浩二」は昭和23年松竹映画「遊侠の群れ」で
デビューし人気上昇中のスターであった

 
  「そりゃ結構な ことやないか成功を祈りますよ」

「田岡一雄」の言葉は いっけん 
穏やかそうに聞けなくも無いが・・・

取りようによると・・・突き放すように取れなくも無い、

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実はこの二年前
「田岡一雄」は東映京都撮影所に
「兼松」を訪ね低姿勢で

「うちの芸能部で(この時点ではまだ<神戸芸能社>は
法人登記されていなかった)
鶴田さんを使わせてもらえないか」と申し入れた

「兼松」は「日程に空きが無いから」と断った

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二人の間にはこのようないきさつがあったのである

  「田岡一雄」にしてみれば全国制覇を目指し
飛ぶ鳥をも落とすがごときの勢いの
山口組三代目としていわばコケにされた

恨みが無い訳がない・・・

二年後の今、所変わって「兼松」の方から

「田岡一雄」に挨拶に来たのである・・・

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「鶴田浩二」と「高田浩吉」は師弟の間柄にある

「高田浩吉」のマネジメントを任されていた
山口組興行部、の者が金銭トラブルを起こした、

それを知って
  「田岡一雄」は激怒した

約束事や金銭的にルーズな男は
 
「田岡一雄」がもっとも嫌う事だった 

「田岡一雄」は極道という己の分際を
わきまえていればこそ人に接する時は
ことさらに腰を低くし

特に金払いや約束事はキチンと守ることを
心がけていた

堅気の人はそうでなくても極道者を恐怖の目で見る
  
「田岡一雄」にはそれが残念でならなかった・・・

しかし下っ端のチンピラとなるとそんな
 「田岡一雄」の、思いは通じていない
堅気の人に迷惑をかけっぱなしなのである

部下の不始末は私の不始末と
 
「田岡一雄」は「高田浩吉」に詫びを入れ
部下の不始末の尻拭いをした事で

「高田浩吉」も誠意を感じて丸く収まった

以来
  「田岡一雄」は「高田」の巡業によくついてまわった・・・
そんな「高田浩吉」から「鶴田浩二」の事はよく聞かされていた・・・

このような事で
  「田岡一雄」も「鶴田」を欲しがったのであるが

「兼松」は大人の対応が出来ない
成り上がりマネージャーだった

雑談の後「兼松」は「これは些少ですが 
ご挨拶のしるしに」と浅草海苔と金包みを差し出してきた

一瞬
「田岡一雄」はその金包みにいたく自尊心を傷つけられた

<二年前の山口組三代目としての低姿勢の申し入れを
コケにされた思い出が脳裏をよぎった>

他人の好意は有難く受けるが金包みとは失礼ではないか
さして懇意でもない男から金を受け取るほど
私は金には困っていない

挨拶ならば海苔だけで十分である
  「田岡一雄」はそう思った

「兼松さん、これはなんの真似ですか」

「ハア・・ですから、ご挨拶がわりに」

「金をですか」

「・・・・・」

「兼松さん、それは失礼やないか
。私は貴方からいわれのない金を頂くほど
貧乏はしていない。持って帰っていただこう」

封筒に入った金を「兼松」の前にポンと置いた
(一説では5万円だったらしい
今の50万円くらいの価値だろうか)

たまたまその場に同席していた「梶原清晴」が
 「田岡一雄」の腹心の部下。
神戸港の多くの権益を握っていた)

 「田岡一雄」の不快な顔色を伺い独断で
「鶴田浩二」襲撃を引き起こす事件へとつながっていく

この襲撃に参加した当時、
山口組若頭(山口組ナンバーツー)「山本健一」は

「梶原から【親分が失礼な奴やと怒っていた】と聞いて
黙っていられず、年が明けた一月五日。

益田芳夫・清水光重・尾崎昭治・らの幹部連中を引き連れ
鶴田の宿舎へ行った」・・・

「鶴田」は天王寺区大道町の備前屋を宿舎としていた

一月五日の午後七時頃四人は備前屋に着いた
入り口はサインを求める若い女性ファンで
寄り付けないような状況であった

「サインなら わしがもろうてきてやるで」と
山本らは二階東側の鶴田の部屋「桔梗の間」へ
上がっていった

二階の一番奥の左手にその部屋はある
鶴田浩二は水ノ江滝子・高峰三枝子らと一緒に夕食をとっていた

他に十人ほどの関係者が同席していた

「おめでとうさん」

一月五日ということで山本は正月の挨拶をしながら
部屋へ入っていった

返事は誰からも返って来ない
不意の侵入者にけげんな顔つきだった

鶴田も冷ややかな一瞥をくれただけだった

「ファンがこの寒い中外で仰山待っとるんやけどなー」

山本は上着のポケットに両手を突っ込んだまま
鶴田に問いかける鶴田はもはや振り向きもせず
黙々と箸を動かし続ける

それが横柄な態度に見えた無視されたことで
山本の怒りは爆発した

彼の上着のポケットには寒さしのぎにあおっていた
ウイスキーのポケットビンが入っていた
砕けんばかりにそれを握り締めたと思うと

「なんやその態度は」叫ぶと同時に
鶴田にポケットビンで殴りかかっていた。

【鶴田はさすがに役者で顔を殴られぬように
両腕で顔面を覆いながら『命だけは助けてくれ』と言った

『命やないファンを大切にせいいうとんのや』と
殴りつけその足で大正橋にいる隅谷末吉を通じて

親分に謝罪を申し入れてもろうた】(山本健一談)

襲撃の最中、水ノ江滝子・高峰三枝子は
呆然と立ち尽くしていた

鶴田は近所の早石病院へ運ばれ

頭と手に都合十一針縫う傷を負った

山本健一は大正14年神戸葺合区に生まれ
父は川崎造船所の技師だった

昭和17年大阪電気学校を卒業して
横須賀海軍で設計製図員として勤務し
父の血を引いてエンジニアを目指していた

昭和20年鳥取の中部第四十七部隊へ入隊したが
復員してみると家は焼かれ親弟妹の生死さえ不明だった・・・

それから間もなく三宮界隈で暴れまくる一匹狼が誕生した

その名を『山本健一』といい
彼の名は三宮界隈に轟き渡っていた

昭和26年 そんな山健の前に
一人の初老の男が立ちふさがった、

当時、山口組若頭を務めていた安原政雄であった

「男はつまらぬ喧嘩はするものではない
なァ若い衆喧嘩は一生に一度でいいやろ」

穏やかに諭されて山健は安原の若衆となった

鶴田傷害事件から50日後山健は徳島県で逮捕された

この事件で「山本健一」の名は一躍全国区に躍り出た・・・

その後
「田岡一雄」と「鶴田浩二」はお互いに誤解を詫びあい
親交が続いた

  こうして一件落着かと思われた矢先・・・大変な事件が起こった

1957年「浅草国際劇場」に出演していた
「美空ひばり」が観客に塩酸を浴びせられるという
重大事件が勃発した、

ひばりを可愛がっていた田岡も驚いた
田岡の対応は素早かった

「美空ひばり」の公演には山口組の若い者を前列に配置し
蟻ノ子一匹近づけない体制を敷いた

「美空ひばり」母子も安心してステージに立てた

「やっぱりおじちゃんは頼りになるは」

「田岡一雄」は苦笑いするしかなかった

同年ついに満を持して
「田岡一雄」は
「神戸芸能社」を立ち上げた

「美空ひばり」「鶴田浩二」という
当時の二大トップスターを支配下に置き、

田端義夫・里見浩太郎・山城新悟・橋幸男・
フランク永井・舟木一夫・坂本九・三波春夫・
等々そうそうたる顔ぶれをそろえた

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