「田岡一雄」 「川田晴久」を語る | なんでも書いちゃってます

なんでも書いちゃってます

【卓球】政界・宇宙・日本文学・極道・他
 多彩なエンターテイメント

【you tube】
ギター演奏:https://youtu.be/u9wkuDy5UlI
卓球動画:https://youtu.be/HwGHu_Y11qI

【卓球動画/youtube/チャンネル】➡https://youtu.be/HwGHu_Y11qI

【田岡一雄・・・談】

先代(二代目・山口登)の七回忌追善興行

より少し前私は一人の芸人を知った

「川田晴久」(昭和32年・56才で結核のため死亡

)「川田」の活躍を私はすでに戦時中から知っていた

♪♪地球の上に朝が来る その裏側は夜だった♪♪


で始まる浪曲調の「川田」の歌謡漫談は
一世を風靡しその軽快なリズムと美声は
戦時色の暗さを払拭してくれる明るさがあった

私は「川田」のひそかなファンでもあったのだ

その「川田」が戦後久々に大阪の大劇に
出演と言うのを聞いて
私は彼の実演を見に出かけた

始めて舞台で見る「川田」の姿に
私は思わず絶句した

彼は当時脊椎カリエスに冒され車椅子に乗って
舞台をつとめていたのだ

華やかな彼の全盛時代を知る私たちの年代にとって
車椅子に乗って舞台を勤める
「川田」の姿は余りにも悲惨で痛々しかった

そんな芸人の姿が私には黙視できなかった
私は一人のファンとして
花を携え楽屋へ「川田」を見舞った

「神戸の一ファンです」

「川田」は改まって不自由な身体を折り曲げて
私を迎えようとする

折り目正しくファンと応対しようとする
この男の性格が私には好もしく思えた

「昔ながらの美声で、懐かしく楽しませてもらいました」

「滅相も無いこんな恥ずかしい姿で
お目障りだったと思います」

「どうですお身体のほうは」

私の問いかけに川田はふっと気弱な薄笑いを浮かべ

「もういけませんなァ」

と首を横に振って見せた
自分自身へのあきらめの色があった

私は黙って川田を見据えていた
川田の気弱さが歯がゆかったのだ
男なら何故石にかじりついても
再起を誓えぬのだ

病気くらいでなんだ
大勢のファンのためにも見事に立ち直って
みせるのが芸人の意地ではないのか

自分の力で再起できないというならば
私が首に縄つけてもこの男を
再起させてやろう

そんな男気がむらむらと私の胸に
湧き上がっていたのだ

「川田さんよろしかったら今夜一緒に
めしでも食いませんか」

川田を誘ってその夜宗右衛門町で
一緒にめしを食いながら
私は川田の身の上話を聞いた

当時川田は吉本興業の専属で
病気で出演してもしなくても

月に二千円の給料を吉本からもらっていた
川田のこれまでの功績に報いるため

吉本興業では川田の面倒をみてやっていたのである
しかしながらそのわずかな月給では
川田の生活は苦しかった

脊椎カリエスというやっかいな病気を背負って
治療に専念することよりも生活に追われていた
川田は東京で寺の離れを借りて
一人で細々と自炊生活をしている惨状であった

川田の話を煎じ詰めてみればまとまった金さえあれば
なんとか立ち直りのきっかけがつかめそうだ
ということである

「わかりました金で解決の糸口がつかめるというならば
お力になりましょう」

私は約束した

私はさっそく川田の委任状を持って
吉本興業へ出かけて川田の身柄をもらいうけ
<吉本興行も田岡一雄(山口組三代目)が
直々に来ての交渉である

ノーなど言える訳が無い・
別に恐喝とかした訳ではない
三代目は素人さんに失礼な事など
人生でただの一度も無い>

その足で神戸の新開地劇場へ直行し
ギャラ四万円で売り込んでやった

一世を風靡した男とはいえ今は落ち目の川田に
四万円の出演料は当然破格であった
さすがに支配人は渋ったが

「何も聞かんで私に四万円くれると思って
川田にそっくりやってくれ」

と言ったその一言で支配人は背後の重みを了承し
快諾してくれた川田は私の手をとって感泣した


「なぁ川田さん芸人いうのはいつか
落ち目になるときもあるその時に備えて
今のうちにアパートか旅館の一軒も持つ
算段をしてほしいのや

お節介なことだがファンというものは
そういうことまで心配したがるものです」


川田が老後に備えて旅館「川田」を作ったのは
それから数年後のことである
 

 


卓球 ブログランキングへ