◆8時起床。明るい朝だ。6時ちょっと過ぎにチャボの叫び声で起こされた。騒ぎの様子から、シロが庭を駆け回り、それゆえのチャボの悲鳴と判断した。それで、寝たのは12時近かったから、起きるには早すぎる。もう一度布団をかぶったら、この時刻となった。

 

◆ランニングと朝食をすませ、パソコンを開く。おふたりの編集者からメールが入っていた。じき校了となる「移住」の方の編集者は、2、3の疑問点を指摘してくれていた。ああ、ご指摘の通りです、訂正よろしく願いますとすぐ返信した。何事においても複数の眼が必要・・・。編集者は「もうひとつの眼」である。

 

 

◆これから先、寒さとともに、どんどんビニールトンネを仕立てて葉物をまくことになる。今日は使わなくなったパイプを一か所に集合させるところから仕事を始めた。

 

 

◆そして次はアズキの選別。ありあわせの、ザル状のもので穴から身を落とす。

 

 

◆そして最後は、風に吹かせて細かい殻を飛ばすんだが…今日は風がない。

 

 

◆一段落したところで、何か、口に入れるものを・・・ミカンを思いついた。残念ながら、去年は大豊作だったのに、今年はわずかしかなってくれない。でも味は良かった。

 

 

◆午後から荷造り。大きな防寒シートを朝夕に掛けたり外したり。その甲斐あって、ピーマンはまだドッサリ大きな実をつけてくれている。今日もふるさと納税での新しいお客さん。このピーマンと、ヤマイモ、サトイモ、サツマイモ、大根、シークワーサー、生姜、エダマメ、シイタケ、卵。

 

 

◆荷造りしながら、包み紙である新聞の書評欄を立ち読みする。目に留まったのは、ベトナム系アメリカ人、オーシャン・ヴオンという人の『地上で僕らはつかの間きらめく』。評者は作家・木内昇氏。木内氏は冒頭、こう書く。

 

忘れたいことほど、鍋底の焦げつきのように、しつこく脳裏にこびりついている。楽しかった思い出は年を経るとかすんでしまうのに、苦い経験はいつまでも生々しい。記憶というものは存外、意地悪にできている・・・。

 

◆僕の頭はだいぶ老化した。木内氏の記述とはやや違い、幸なのか不幸なのか、楽しかったこととともに、苦い経験も、ほとんど輪郭が不鮮明になるくらい記憶から消えかかっている。『地上で僕らはつかの間きらめく』にはこういった場面があるらしい。少しわかる気がする。どんどん、時代も人物も、僕の頭の中から消えかかっている今、数少なく記憶している人というのは、きっと、僕の脳がその人を「恋しく思っている」からに違いない。

 

ベトナム語では誰かを「恋しく思う」というのと、だれかを「覚えている」というのは同じ単語で表される・・・。

 

 

◆6時、ストレッチと腹筋を終えて、台所に立つ。立っている僕の足にシロが体を密着させ、どうやら晩飯の催促らしい鳴き声を響かせる。ときおり、床に寝っ転がり、僕のズボンの裾に爪をかけて遊ぶ。

 

 

◆ハイ、わかった。欲しいのはごはんだな。豚肉と魚を合わせて皿に盛る。ガツガツと食って、どうするかと思ったら、大あくび。犬と猫の違いが世間ではよく言われる。なるほど、猫というのは自分本位。人間には迎合しない動物だ。