台嶺(たいれい)さん | 稲垣昌利オフィシャルブログ「まさとしのティータイム」Powered by Ameba

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僕の住む 西尾市葵町 には


台嶺(たいれい)さん


との呼び名で親しまれている


記念碑が建っている場所があり、


僕も幼い頃はよくそこで遊びましたニコニコ


でもそこがなぜ「たいれいさん」と呼ばれ


何があったのかサッパリ知りませんでしたあせる




実はここは、


石川台嶺 さんという僧侶の慰霊碑であり、


毎年6月6日にたくさんの僧侶による


法要が営まれるのですビックリマーク


少々長くなりますが、


その解説を書かせていただきますひらめき電球






明治4年(1871)3月9日、


菊間藩の進める寺院統廃合案を撤回させるべく、


三河護法会の若手僧侶らが門徒の農民を連れ立ち、


菊間藩のある大浜へと向かいました。


途中の鷲塚村(現在の碧南市北東地域)にて


僧侶と藩役人との話し合いが行われるが決裂。


怒った農民が暴徒化し、


菊間藩の「藤岡薫」を惨殺してしまった事件があり、


大浜騒動や菊間藩事件ともいいます。


首謀者の蓮泉寺石川台嶺斬首刑


菊間藩「藤岡薫」殺害の罪で


榊原喜代七は絞首刑となりました。


石川台嶺を始め僧31人、


農民9人が処罰され,


獄舎で4人の僧侶が獄死しました。





明治40年、


石川台嶺三十七回忌法要を記念し、


三河学友会によって


「台嶺殉教之地」と刻んだ石標が作れら、


そして明治44年には、


田中長嶺が事件の顛末を絵と詞でまとめた


殉教絵史 が刊行されました。




これらがきっかけとなり、


五十回忌を迎える大正9年頃、


台嶺が処刑された


西尾市葵町西尾藩牢獄跡


記念碑建設を」 の声が、


西尾寺院(現11組)の中で起こりました。


そこで、


平野円玄(正念寺)・泉慧嶽(聖運寺)が中心となり、


事務所を聖運寺(西尾市)に置き、


建碑運動を展開しました。


同年、


三河別院で事件50年記念遺品展を開催し、


翌10年には村上専精博士を招いての講演会、


多田鼎師の小冊子『三河の殉教者』を刊行と、


世論啓発につとめました。




募財は、


三河一円に寺院や有志により往訪・文書等


あらゆるも方法をもってお願いし、


また岡崎教務所を通じ、


全国より喜捨を求めました。


碑については、


題額を東本願寺彰如法主(句仏上人)、


撰文を村上博士、


書を東南家賢氏の各氏に依頼しました。




これら多くの方の懇念により碑は完成し、


大正13年6月6日に除幕式が、


翌7日には殉教之士追悼法要が巌修されました。


近隣市町村より多数の僧俗の参集を得て、


西尾町空前の賑わいでした。


記念碑建立によって新しく殉教記念会が結成され、


毎年6月6日に殉教記念法要を修業と定められました。


第1回の法要が翌14年6月6日に巌修され、


今日に至るまで一回の休みもなく


続けられています。







という事で、


長くなりましたが、


僕の住む葵町は西尾藩の牢獄跡で、


そこで石川台嶺さんが処刑されたため、


殉教記念碑が建立されて、


今日に至るまで


葵町のみなさんが「台嶺さん」と呼び親しみながら


敷地内の清掃奉仕などの維持管理に携わり、


毎年6月6日前後に殉教記念法要が行われる


という事ですひらめき電球





僕の家から歩いて1分もかからないため、


昔から慣れ親しんでいる場所ですが、


そんな歴史があるという事を知ったのは


本当にまだ数年前のですあせる