小学校高学年になる娘。
最近の楽しみは、毎日、家の窓からカラスの巣を観察することでした。

ヒナが生まれて1カ月ほど。
小さかったヒナが、日に日に成長し、親鳥と同じくらいの大きさに。
巣の周りで羽ばたき練習をしていたのが、フワッと飛べるようになり、これから巣の外での子育てが見られると思っていた矢先。

4羽のヒナのうち2羽が、車にひかれて死にました。

巣は交通量の多い道路のそば。
夕方の、車が多い時間帯にひかれてしまったようです。

「道路に降りたところを白い車がひいていった」

寂しそうに、娘が言いました。
交通量が少ない時間帯なら、車も減速してくれたかもしれませんが、残念な限りです。

「運が悪かった」で、片づけるのは簡単ですが、それは都合のいい大人の解釈でしかありません。
私の娘でしょうから、きっと、煮え切らない気持ちが、心の中に生まれたことでしょう。



―子供の頃から、当たり前のように、路上で死んでいる動物たちを見てきました。
通学路で、目の前でスズメが道路へ飛び出して、通りかかった車に踏みつぶされる場面を見たこともあります。

獣医になりたての頃、道路ではねられたシカを助けようとしたら、目の前で、後続車がシカを踏みつぶして行ったこともありました。


仕事の車で助手席に同乗していたら、草むらから飛び出した小鳥と車が接触。

運転していた人は「いま何かあたった?」と。―

命って、人間にとって何なんでしょうね?


カラスの両親はヒナを育てるため、何度も何度もエサを運んでいました。
ヒナたちは一生懸命に食べて、立派な翼も生えて、頑張って風をつかむ練習をしていました。

カラスの親子の1カ月にわたる努力と愛情の記憶は、一瞬にして人間が奪っていきました。

これは、世によくある不条理として、片づけられるものなのでしょうか。



そろそろ、事態の本当の怖さに、気付くべきではないしょうか?

―死をもって、生物は進化する。—
進化論の思想は、確かですが残酷です。

その本当の恐ろしさに、そろそろ人間も気づかないといけないと思います。

たとえ夕方のラッシュの時間であろうと、危険な目にあっている命に気付き、それを守る。
もっと、血の通った個人、血の通った社会に、なっていかないといけない。

そんな世の中じゃなければ、自殺も、戦争も、なくなるわけがないでしょう。

 

心を亡くした人間は、何処へ行くのでしょう?

 

「忙しい」という言葉の裏で、何か、本当に大事なものを忘れてしまっている。

人間は、そのことに気づくことができるでしょうか?