有安城は、渡瀬城(吉川町渡瀬)を本城とする渡瀬氏の居城である。『播州明石記録』に「渡瀬小次郎 三木郡 上渡瀬有安」とある。有安城の築城時期については室町時代というだけで、確実なところがわからないのであるが、城主である渡瀬氏については、「法光寺文書」『建内記』『渡瀬系譜』等によっておおよそのことがわかる。「法光寺文書」には、観応元年(1350)に小野盛国が法光寺(吉川町法光寺)へ塔敷料として田地を寄進、文安四年(1447)にその子孫が「藤田掃部助先祖寄進塔敷云々」の文書を残している。
吉川上荘の領家万里小路時房の日記『建内記』から、渡瀬氏がこの藤田氏の一族であることを確認できる。ただし、『渡瀬系譜』は渡瀬氏が近江の佐々木源氏の一族であるとしている。『渡瀬系譜』によると、佐々木義範が源頼朝から渡瀬郷を与えられて文治元年(1185)に来住、地名をもって氏とした。その五代目渡瀬綱光が明徳二年(1391)の明徳の乱で赤松義則・別所敦重と共に奮戦し、山名氏清の子清量を討ち取った。この功により将軍足利義満からニ万石の領地を与えられ、渡瀬城を築いた。綱光以後、盛清-盛久-高治-好高-好範-好光と続いた、とある。この好光が渡瀬小次郎で、別所吉親の娘を妻としている。好光は三木城主別所氏の幕下であったが、羽柴秀吉の大軍が三木城に押し寄せた時に秀吉の働きかけで秀吉方につき、好光自ら渡瀬城に火を放って伊丹城主荒木村重のもとに移った。好光の弟渡瀬好勝は別所方として三木城に入り、天正七年(1579)十一月十三日に自害している(『光岳宗養居士好勝之墓』)。有安城が廃城になったのは、渡瀬好光が渡瀬城を放棄したという天正六年頃であろう。
(※兵庫県中世城館・荘園遺跡より)
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