正保書上五十四城の一で、「古城之覚」は勝田北郡高円村の「菩提寺」として、城主を小原孫次郎入道と記すが、その典拠とみられる「太平記」には「有元民部大夫入道ガ菩提寺ノ城、小原孫次郎ガ籠リタル小原ノ城」とあるように籠城主体は有元民部大夫入道とするべきである。また元禄元年(1688)の関本村書上(「東作誌」所収)にみえる古城三ヶ所の一として「菩提寺城」がみえるとされ、「東作誌」は勝北郡高円村の「菩提寺城」として、城主を有元民部大夫入道佐顕と小原孫次郎入道信明とし、また同郡関本村の項にも城名が見える。天保国絵図に「菩提寺」として寺院が描かれており、その名称からも山岳寺院である諾山菩提寺を城郭として利用したものと考えられる。
建武三年(1336)三月、美作国では、九州に逃れた足利尊氏に帰服して「菅家・江見・弘戸ノ者共」が「奈義能仙・菩提寺ノ城」を築いて国中を領有したが、江田行義が三千余騎で美作国に討ち入り、「奈義能仙・菩提寺二箇所ノ城」を取り巻いたところ、馬や武具を捨てて城に連なった上の山へ敗走したとする(「太平記」)。また康安元年(1361)七月、山名時氏の美作国侵攻にあたり降参した六ヶ城のうちに「有元民部大夫入道ガ菩提寺ノ城」がみえる(「太平記」)。応仁元年(1467)十月、赤松氏の家臣中村五郎左衛門尉が美作国回復を目指して同国院庄(津山市院庄)に入った際、山名勢は東群の「菩提寺」などに籠り抵抗したとある(「応仁別記」)。
(※美作国の山城より)
高貴山菩提寺看板