淡相城 旧英田郡作東町 | 山城攻略日記

山城攻略日記

北海道から沖縄まで、日本全国の有名所の城を旅し…
現在は地元・鳥取を中心とした城巡りの日々(^-^)/

淡相城(美作市粟井中)

正保書上五十四城の一で、「古城之覚」は吉野郡粟井中村の「中村之城」として、菅家の一族を城主とするとともに、赤松氏譜代の侍という粟井近江守景盛の前後五、六代が住む、山の高さ半町余り、本丸(二十間四方)、二ノ丸(四十間四方)、東の方に三角の丸(約二十間)、平山城のため出城で敵を防いだという、用水多しとする。元禄十年(1697)とされる村々書上(『粟広村史』所収)には、中村の粟井城主は粟井近江之助とし、「山名伯耆守義氏」の美作国領有により「菅家之嫡領併和の助盛」が当城に移り粟井某と称し、以降六、七代は赤松氏配下、また尼子晴久に属し、近江之助、宇喜多氏に属した聟の与一平(兵衛)、子の三郎平(兵衛)と続きのち浪人したとする。「美作鬢鏡」は「粟井中村ノ城」、「美作鏡」は「淡相城」で城主を菅家一族の粟井近江之介と表記する。「東作誌」は加えて本丸は上は五間四方で五段あり、二丸は四段、上は十畳敷程度で、粟井和泉守(近江守)菅原景盛・同備前守休盛・同近江守晴盛三代の居城と記す。天保国絵図に「古城跡」とある。『英田郡誌』は別名を淡相城、中村城、粟井中村城、『英田郡史考』は「淡相城(中村城とも云う)」とする。『日本城郭全集』は「淡相山城」として、所在を勝田郡勝田町馬形とするが誤りである。
出雲国尼子氏は、備前国周匝(赤磐市周匝)と三星城(美作市明見)を、さらに「粟井村ノ赤松之城」を攻め落として出雲国に引き取ったと言い伝えるとする(「備前記」)。
(※美作国の山城より)

北四郭
小規模な北三郭
北二郭
北二郭の西土塁
西横堀
主郭
主郭の南土塁
南堀切
二段になった南二郭
南三郭
主郭の南西下の南西三郭
西横堀の外側の高台上の北西外郭
東出城北四郭(その北に北五郭があるが、民家が建つため、撮影していない)
東出城北三郭
東出城北二郭北帯曲輪
東出城北二郭
東出城北二郭西腰曲輪
東出城主郭北帯曲輪
東出城主郭西帯曲輪下段
東出城主郭西帯曲輪上段
東出城主郭
主郭の南土塁
東出城主郭東帯曲輪上段
東出城主郭東帯曲輪下段
薮と倒木に覆われた南堀切
南堀切からの東竪堀

淡相城遠望
実地踏査を基に作成した概略図
軌跡ログ