元禄十年(1697)の長谷内村庄屋惣十郎の書上(『粟広村史』、『勝田町誌』所収)に長谷内村に古城屋敷あり、「天文年中雲州戸田大児の領地なり、其の節止城に尼子の軍勢陣取り要塞致し候も、昔老人のもの共申し伝え、これを比久尼城と申すなり」とあるという。「東作誌」の吉野郡長谷内村の項には城主不詳、尼子氏の城跡であるので比久尼城と言い習わすといい、山の高さ約六十間、形はわずかに嶺を切り開いた所あり、山の西半分は向原村との境と記す。勝北郡向原村の項には、大谷ともいい、本丸(東西二十四間、南北四間)、東が大手で山の高さ七十二間などと記す。『英田郡史考』は「比久尼ヶ城」とする。『美作古城史』は一夜城の跡で、名前から天文年間、出雲尼子氏進出の際の拠点かとする。
(※美作国の山城より)