畑高城 旧養父郡養父町 | 山城攻略日記

山城攻略日記

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現在は地元・鳥取を中心とした城巡りの日々(^-^)/

畑高城(養父市上野字奥山・朝来市和田山町岡字投山)

畑高城は上野集落南東、集落から直線距離で2.7km離れた標高537m地点に「南城」(畑高城)、標高520m地点に「北城」(石禾上城)がある。むしろ畑集落からの方が近く、1.3kmを測る。畑集落では「高城」と呼ばれている。現在は上野地区に含まれる。上野集落との比高は「南城」(畑高城)が約477m、「北城」が約460mもある。城域は、「南城」(畑高城)が東西約100m・南北約190m、「北城」(石禾上城)が東西約140m・南北約80mを測る。
『和田山町史・上巻』(和田山町2004年)は、南北朝期の阿曽沼氏に関する文書(『早崎家文書』)が存在することから、畑高城を「石禾城」と命名し、城主を阿曽沼氏と推定している。しかし戦国期の改修が顕著に見られ、石禾郷における戦国期の城主は不明である。地元の呼称に従って畑高城とする。
(※図説養父市城郭事典より)

和田山町法道寺・岡の石禾谷の西側の壁となって奥地へつながる尾根筋の最高の峰、標高537mの峰に一つの城郭址がある。岡集落のすぐ上である。畑集落からも登りやすい場所であるから、『但馬の城』には「畑高城」と命名して登載されている。それを本書では、この山並みに存在する他の域もの関連を印象付ける見地から、「石禾城」と呼ぶことにした。この城
縄張りの様相からみて、室町・戦国期のものと思われる。
そのから円山川沿いの平地へ向かって流れる尾根上、落差30m余の鞍部を隔てた向こうにそそりた立つ峰にも城郭址があった。高さは石禾城よりわずかに低い。郭は一見したところ古風である。峰の頂点を起点に岡集落に向かう尾根と、堀畑・高田集落に向かう尾根との二条に分かれ、一、二mの段差をもって多くの小郭が連続して作られている。南北朝期のものと見受けられたので、この城を「石禾古城」と命名することにした。
ついで堀畑・高田集落方向に流れる尾根を下ると、また鞍部に達した。ここに一つの堀切のように道が横切っていた。養父町上野から和田山町宮内へ越す道である。荒れ果てていて痕跡といってよい姿である。ここから次には登りとなるので尾根筋を登っていくと、標高480m余のまた一つの峰に達した。この山頂部は削平のために人手が加えらたのではないらしい自然の平坦地の姿だが、そのすぐ下、堀畑集落に面する側の斜面ならびに尾根に、郭の跡らしいいくつかの小削平地が存在している。郭としたなら古風である。南北朝期のものと見受けられる。石禾古城に附属する城郭地だったかもしれない。
(※養父町史より)

呼称が多いので、北から石禾下城・石禾上城・畑高城と呼ばせていただく。



南西八郭(曲輪8)

南西七郭(曲輪7)

南西堀切A

南西堀切Aからの西竪堀ア

南西堀切Aからの南東竪堀イ

南五郭(曲輪6)

西竪堀ウ

西竪堀ウの北の浅い竪堀

南東竪堀エ

南東四郭(曲輪4)

南東五郭(曲輪5)

南東六郭

西竪堀コ

南三郭(曲輪3)

南二郭(曲輪2)

主郭

北二郭(曲輪2)

南二郭と北二郭を繋ぐ西二郭(曲輪2)

西三郭(曲輪4)

西竪堀コ

西三郭と繋がる北三郭(曲輪4)

北二重堀切B

北二重堀切Bからの東竪堀カ

北二重堀切Bからの北西竪堀キ

北二重堀切C

北二重堀切Cからの北西竪堀ケ

北二重堀切Cからの東竪堀ク

北西四郭(曲輪11)

北西五郭(曲輪9)

北西六郭(曲輪12)

北西七郭(曲輪10)

北西八郭(曲輪13)


石禾三城遠望

軌跡ログ



旧養父郡養父町の城