亀ヶ城 豊岡市但東町 | 山城攻略日記

山城攻略日記

北海道から沖縄まで、日本全国の有名所の城を旅し…
現在は地元・鳥取を中心とした城巡りの日々(^-^)/

亀ヶ城(豊岡市但東町太田字城山)

亀ヶ城は西流する太田川右岸、太田集落背後(北側)の標高165~172mの丘陵にあり、丹後宮津から出石に抜ける街道(出石・宮津道)を抑える要衝を占める。城域は東西約300m・南北約300mを測る大規模城郭である。太田集落との比高は約80~90mを測る。
亀ヶ城は、鎌倉期の太田氏(昌明)の居城と伝承されている。太田集落の位置する山裾には門口・構口・大手口・町・町下・隠元谷・堀端・墓ノ町(処刑場)・長福寺址・了見寺址などの地名が残り、北側の幅広い帯曲輪は馬駆場、その背後(北側)の谷は牢屋敷址と呼ばれている。また城の東1kmの山麓には太田氏代々の墓地と伝承されている五輪ヶ谷がある。なお城の西の山裾には大将軍館・堀ノ内館の字があり、大将軍館は太田氏の祖太田昌明が承久の乱以前に居住し、同乱後に新たに建設したのが堀ノ内館であると伝えている。
(中略)
元弘の乱によって後醍醐天皇の皇子聖護院宮静尊法親王は但馬に配流され、太田守延にその警固が命じられる。守延は元弘三年(1333)四月後醍醐天皇が隠岐を脱出し、名和長年によって伯耆国船上山(鳥取県)に迎えられると、千種忠顕の催告に応じて、親王を奉じて京都六波羅探題を攻撃した。守延は二条口の戦いで戦死したという(「太平記」)。この時太田氏は断絶したと考えられているが、地元にはその後も当地に存続し、亀ヶ城は天正八年(1580)の羽柴秀長の第二次但馬進攻によって落城したという伝承もあるという。ただし現段階では、太田氏に関して南北朝期以降文献的に確認することはできない。
(※豊岡市の城郭集成Ⅱより)

東曲輪群南八郭(曲輪10)

その南東下の東曲輪群南九郭(曲輪11)

南八郭の北上の東曲輪群南七郭

その西には南堅堀

帯曲輪状に東西に伸びる東曲輪群南六郭(曲輪9)

南六郭の南東腰曲輪

南東八郭の西帯曲輪(曲輪13)

東曲輪群南東八郭(曲輪12)

東曲輪群南東七郭

東曲輪群南東六郭

その上には主郭方面(北西)へ向かう登り土塁

南東堅堀

その上には曲輪

東堅堀

そこから山道を辿ると、東曲輪群南四郭

その下の東曲輪群南五郭(曲輪8)

東曲輪群南三郭(曲輪7)

その東に一段高い東曲輪群南二郭(曲輪6)

東曲輪群主郭(曲輪1)

主郭の北土塁(曲輪3)

北土塁の南西には土塁

主郭の北西虎口

主郭の北西土塁

主郭の北東下の東曲輪群北東二郭(曲輪5)

その北東下に腰曲輪

帯曲輪状の東曲輪群北二郭(曲輪4)

主郭の虎口の外の東曲輪群西二郭(曲輪2)

東曲輪群と西曲輪群の間の大堀切


堀切を越え、西曲輪群西三郭(曲輪17)

西三郭から西二郭への登り土塁

西曲輪群西二郭(曲輪15)

西曲輪群主郭(曲輪16)

西曲輪群北二郭(曲輪18)

北二郭の北側は少し下がり、帯曲輪状となっている

北二郭の西端の土塁

北二郭下の腰曲輪

腰曲輪の東、北二郭の北堅堀

北二郭の東堅堀

西三郭(曲輪17)から北への堅堀

北側の谷間にも二段の曲輪


東曲輪群の北と東を囲む大規模な帯曲輪(曲輪14)

西へ一段下がり、帯曲輪(曲輪19)

その北下にも帯曲輪(曲輪20)

下から見た北西三重堅堀(東)

北西三重堅堀(東)

北西三重堅堀(中)

北西三重堅堀(西)

西曲輪群主郭の南西下の堀切
北西三重堅堀は、この堀切の北側が三俣に分岐したものだ

南側は二条に分岐している
分岐した西側の堅堀

分岐した東側の堅堀

その西にも堅堀

さらに西に堅堀

西二郭の西側の堀切(堀切D)

堀切Dから北への堅堀(西畝状堅堀群最南)
これは西に四条連なる堅堀群の一番南側となり、さらに三条の堅堀が連なる

西畝状堅堀群(南)

西畝状堅堀群(北)

西畝状堅堀群(最北)

西曲輪群南西三郭

さらに南西に下ると、中央に土橋、両側に堅堀と思われる地形

南西の丘陵頂部
出丸か?

西曲輪群主郭と堀切を挟んだ南西二郭
曲輪というより土塁状だ


亀ヶ城遠望

軌跡ログ



旧出石郡但東町の城