茶臼山城(茶磨山城) 旧東伯郡北条町 | 山城攻略日記

山城攻略日記

北海道から沖縄まで、日本全国の有名所の城を旅し…
現在は地元・鳥取を中心とした城巡りの日々(^-^)/

茶臼山城(北栄町国坂)は茶磨山城とも呼ばれる

茶磨山城については、増田玄蕃允、在沢左京亮の居城と伝えられ、中納言行平の後胤(子孫)といわれる。中納言行平といえば、藤原摂関政治が中央で華やかに展開していた時期の人物で、地方政治は藤原氏の政治の私権化により荒廃が進んでいた。
地方政治は摂関家の任免する受領(国司)の意のままにあり、因幡守橘行平の苛政(過酷な徴税がなされた)が知られ、受領による過酷な収奪が行われたが、これは私的な武力がその背景にあったと思われる。
「伯耆民談記」の伝えを事実とすれば、橘行平の一族のうち、伯耆国北条郷に勢力を有する者があり、伯耆の国府にも近い北条郷に所領を持っていたことになる。
ただし、増田、在沢両氏にかかる傍証する史料が見えないので、今後の課題であろう。
(※北条町誌より)

標高は93.9m。北条平野に孤立する丘陵である。
周囲には、約二万年前に形成された古砂丘の層が見える場所があり、このことからこの茶臼山は北条砂丘の形成に大きく関わる海中の小島であったと考えられる。
麓から頂上まで総数五十基の古墳が確認されている。円墳・方墳が中心であるが、前方後円墳・前方後方墳と推定されるものもある。
東側には殿屋敷・馬場・上馬場・下馬場の字があり、殿屋敷は豪族の館と推定され、昭和六十二年(1987)の発掘調査では大型の掘立柱建物や竪穴住居などが検出されている。
北麓には、平安時代(10世紀頃)に編纂された「延喜神名式」に挙げられている伯耆六社の一つ「国坂神社」が鎮座しており、珍しい植生をもつ社叢(北栄町指定文化財)がある。
鎌倉時代には「茶臼山城」とよばれる城郭があったとされ、「増田玄蕃允」や「在沢左京亮」が居城したことが伝えられている。天正八年(1580)には吉川元春が羽衣石城(現湯梨浜町)を攻撃するため、「茶磨山」に本営を置いたという(亀井文書)。
元和三年(1617)、池田光政が播磨国姫路より因幡・伯耆両国に領地替えになったとき、久米郡茶臼山は「地形も宜しければ、これを城府・城地」とし、縄張り(測量)まで行われたが、「新地で費用がかさむ」ため中止とされ、やむなく鳥取城下を拡張して居城とした。
(※現地説明文より)


この茶臼山城、「鳥取県中世城館分布調査報告書」では記載が間違っており、あたかも茶臼山の東麓に存在するかのような縄張図が記載されている…

国坂神社




国坂神社より、尾根を南へと突き進むと、堀切

北五郭

三日月のような形状で堀切に挟まれた北四郭

北四郭の先には堀切

かなり広い北三郭

主郭の腰曲輪程度の北二郭

主郭

北二郭と繋がる南二郭

南二郭の東帯曲輪

南二郭の南堀切

南三郭

南三郭の西下の南四郭

南五郭

南五郭の西下の南六郭

その先には堀切があったが、写真は撮り忘れていた…
そこから上がって南七郭

南八郭

その先に再び堀切

南九郭と南十郭


南十郭の南に堀切

最南端の南十一郭


茶臼山城遠望

実地踏査を元に作成した概略図

軌跡ログ



東伯郡北栄町の城