前回は、鳥取県中世城館分布調査報告書の縄張図を持って挑んだが、一致しなかった半柵城だが、船岡町誌によれば、以前行ったのは南城であり、さらに北に北城があるようなので、再び…
西谷字半作。伊田下野守はそこに城を築いた 。城跡の東方に馬匿しという所もある。城は水口の方に向いている。そこを血見谷と云う 。伊田と豊臣と合戦し、血が流れて谷一杯に広がったからだと云い、この谷のウラジロは葉裏が赤いそうである。 (※船岡町誌より)
地内には中世・大江郷の領主伊田下野守平宗康が文歴元年(1234)に築いた半柵城がはんざ こ(山)山頂(556m)にあり、砦としての丸瀬城もある。これらはいずれも、羽柴秀吉の中国攻めによって落城し、字血見谷や五十首の地名はその時の激しい戦を物語るものである。血見谷に生えるウラジロの葉裏は赤く、その時の血色を留めているものとされている。 (※新修船岡町誌より)
町誌などによれば、中世、大江郷を領した伊田氏の出身については、定かではない。『多宝寺縁起』によると、大江谷地頭伊田民部が 、承案二年(1172)、疫病退散の為に、四国の金比羅大権現を水口の奥、弥五郎谷に勧請して、多宝寺菊泉法印に祈願させて疫病を鎮めたとされている。住民から尊崇された金比羅宮を勧進した伊田民部は、殿地域の開発を進め、この地に勢力を拡げ、因幡国の有力者としての基礎を築いたと思われる。『新編八頭郡誌』には、延元三年(1338)、征夷大将軍足利尊氏より、半柵城主伊田太郎左衛門は、西御門・隼・見槻・西谷の地を安堵されたとあり、因幡国の中でも有力者で、中央政府との強い繋がりをもっていた。
縄張図で城域の最南端に当たる南堀切
南城曲輪群の主郭
ここから未踏査の北城曲輪群へと向かう…
南城曲輪群と北城曲輪群の間には堀切
堀切を越えると、尾根上の細長い曲輪…
さらに北にも同様の細長い曲輪…
三角点が設置されている北城曲輪群主郭
北には、合計三段の曲輪が
その北には土橋を挟み、両側に竪堀
北東竪堀
西竪堀
最北端には土橋の架かる堀切
半柵城遠望
比高380mは、流石になかなかの高さ
鳥取県中世城館分布調査報告書と船岡町誌の縄張図は完全一致しないので、今回の実地踏査を元に作成した概略図
軌跡ログ
全てを踏査した訳ではないが、尾根上には所々に曲輪が数段連なった場所があり、それらは小規模ではあるが、どれも半柵城の砦や出城としての機能を持っていたのだろう…
なお、この城は「半柵城まで○○m」などの看板が設置してあったりはするが、途中から沢を歩き、さらに直登となる(笑)
道無き山歩きに慣れた人間で、往復4時間20分程かかった…
素人では辿り着くのは困難なので、熟練者の同行は必須だ
旧八頭郡船岡町の城