新見市の石蟹山城を踏査した後、南下して軽尾城(高梁市備中町西油野小字奥郷)へ…
この城こそが、今回の旅の主目的である
この城の城主は、天竺三郎四郎元氏…
鳥取県日野郡江府町にある天竺屋敷と美女石城の城番を務めた天竺氏は、この備中軽尾城の城主であり、地元鳥取の城に関連した城であるという事で、是非訪れたいと思っていた
毛利氏の靡下にあった天竺氏は、毛利氏の命により、備中軽尾城より伯耆美女石城へ出向いていたのだろう…
実際に軽尾城を目指すに当たっては西国の山城 軽尾城を参考にさせていただいた
しかし、現地にて西国の山城 軽尾城にある登城口の目印となる神社が見つからない
地元の人達に聞き込みをするが、「軽尾城?」「そんな神社は知らない」との答えばかり
こうなれば、それらしき付近を徹底的に探索するのみ…
細い林道があちこちを走る中、行ったり来たりしていると、林業でもしているのか?という老夫婦が、林業脇にトラックを停め作業していた…
良く見ると、トラックの後ろに山道が見え、登った先に瓦屋根のようなものが…
そこで訪ねると、その上が神社であり、そこの奥が軽尾城と云われる場所との事
ようやく見つけた(笑)
山道を登ると、すぐに神社が
神社背後から、植林された中を直登
すると、明瞭に残る堀切が
堀切から南へ登ると、なかなか広い北二郭
こちらは植林もされておらず、激しい笹薮、そして茨、さらに棘のある木が生い茂っている
足元も確認し難い薮だが、慎重に鎌鉈を振るいつつ前進…
そして、この山の頂部、主郭と思われる場所が見えてきた
主郭へは、なかなかの斜面であるのに加え、掴むのに手頃な木は、ほとんど棘のある木の為に、悪戦苦闘
しかし、ここで引き返すくらいなら、何の為に岡山まで来た…と頑張って登り切る
ようやく到達した主郭も笹薮に覆われていた
主郭中央辺りに、薮の無い一角が…
近寄ってみると、猪の寝床
主郭中央に寝床を構えるとは、まるで城主気分の猪だ(笑)
主郭の南には、主郭とほとんど高低差の無い南二郭
南東下にも曲輪が見えたので、斜面を下るが、斜面がキツい上に、相変わらず掴めそうなのは棘のある木ばかり
苦戦しつつも這い下り、下の曲輪へ…
この曲輪は、主郭と南二郭の南西から北までを囲む帯曲輪となっており、南東部分が広くなっていて、北は北二郭と直結している
南東部分を下ると、そこにも明瞭な堀切が
東から見た南東堀切
その先はなだらかに続く尾根だったので、一度登り直し、今度は南西尾根へ…
こちらにも、浅くなってはいるものの、堀切
その先にも、さらに堀切
この二重堀切は、かなり浅くなっているものの、南西の尾根は大きく伸びており、北と南東を堀切で遮断している以上、こちらに防御設備が無いのは不自然な為、この方面だけ堀切が二重となっているのも頷ける
その先は、削平地とも言えない感じの尾根が続いていた…
再び登り直し、帯曲輪の西側を通って戻る…
西に、もう一段の曲輪が見られた
軽尾城遠望
実地踏査を元に作成した概略図
軌跡ログ
かなり激しい笹薮と、棘や茨に苦戦しつつも、最大の目的を果たして、かなり満足
しかしこの城は、規模は大きくないものの、冬場ですら薮が激しいので、素人の方にはお勧めできない