倉敷市の親戚の家で目覚めた後は、早朝出発で新見市へ北上I
そして、新見市石蟹の石蟹山城へ…
城主は石蟹山城守元で三村氏の庶流と伝えられ、石蟹与兵衛とも称したという。天文年間(1532~1555)には、尼子氏に召し捕られ、出雲富田城において蟄居の身であったというから、当城への在城期間はそれ以前の大永年間(1521~1528)から享禄年間(1528~1532)の頃と思われる。与兵衛は天文年間に十三年にわたって出雲に蟄居していたが、城には楪城主新見氏の庶流新見左京が城代として居城していたようである(『備中府志』)。
ついだ史上にこの城が登場するのは天文二十二年(1553)の猿掛合戦の時である。
(途中略)
石蟹氏は、三村氏の庶流でありながら、主家三村氏の家臣団に編成されることなく、独自性の強い国人層として成長していたようである。備中南部の有力国人庄氏一族とも血縁関係を結ぶことも、備北において独自の地歩を築く手段の一つであったのであろう。
(途中略)
元亀元年(1570)には、備前の宇喜多直家に攻められて一時降伏し、甲籠城主伊達氏ともども宇喜多氏による佐井田城攻めの案内役を強いられた。その後の石蟹氏の動向ははっきりしない面があるが、おそらく西国の雄毛利氏の靡下にあって合戦のあるごとに出陣したのではないかと思われる。
(途中略)
時代は下がって関ヶ原に敗れた毛利氏は慶長五年(1600)に防長二州に移封されたが、石蟹(石賀)氏は随従しておらず、在地に根付いて独自性を持続していたようである。
(※城郭大系より)
気温マイナス2℃の中、石蟹駅の付近を探すが、場所が何処か分からず
あちこち探し回ると、登山道への案内が…
道が整備されていたのか
延々と登ると、まず北の出丸へ…
写真は出丸の「二ノ壇」、奥は「一ノ壇」
出丸と主郭部の間には、堀切があり、土橋が架かる
堀切はなかに見事
堀切から登ると、「九ノ壇」
この「九ノ壇」からは、東西両方へ帯曲輪が続く…
一段上がり、「八ノ壇」
そして「七ノ壇」
こんな状態で、階段状に曲輪が続く…
「二ノ壇」は、上段と下段に分かれている
そして主郭に相当する「一ノ壇」
こちらも上段と下段に分かれている
主郭から南へ下りると、「後ノ壇」
南側には、高さはあまりないが土塁が
さらに南下には「最奥ノ壇」
こちらは整備されていない
「最奥ノ壇」から見た「後ノ壇」の切岸
容易に攻め込めないだけの高さと傾斜がある
「一ノ壇」の北下の帯曲輪
全体的に植林と整備で、楽に踏査可能な城
特に目立つ遺構がある訳ではないが、典型的な中世山城を味わえる
石蟹山城遠望
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