西馬音内城(秋田県雄勝郡羽後町西馬音内堀回)は、鎌倉中期、出羽国雄勝郡に入部し、稲庭城を拠点とした小野寺経道が、次男道直に西馬音内を分知して由利方面の押さえとし、道直が建治三年(1277)に築城したと伝わる。
南北朝、室町の西馬音内小野寺氏の仔細な事績は不明だが、小野寺本家の由利方面への進出拠点として機能していたと考えられる。
関ヶ原の戦いで小野寺氏は西軍に味方し、上杉氏と共に最上領に侵攻したが、関ヶ原で東軍が勝利し、上杉氏が最上領から退却すると、小野寺氏は孤立し、最上氏・檜山安東氏・戸沢氏らの攻撃を受ける。
この時、西馬音内城も最上軍の攻撃を受け、城主茂道は城に火をかけ庄内へ逃走、その後、小野寺氏が改易され、西馬音内城は廃城となった…
現地付近には、看板や石碑もある
山道を登り出すと、堀切が
登ると、さらに堀切
そして横堀も
三の丸には、隅櫓台が…
三の丸付近の堀切
主郭と飯塚館の間にも空堀が
主郭
井戸跡と言われる主郭の窪み
西馬音内城遠望
ちなみに、西馬音内は「ニシモナイ」と読む
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