桜もとうに散り、いよいろ春の日差しが強くなり始めたある日の事である。私はあの『奇妙な女性』が住むアパートの前に立っていた。手に黄精飴(おうせいあめ)という求肥菓子を携え、彼女の部屋のドアチャイムを鳴らしていたのである。
数日前の事である。近所のコンビニでバッタリと彼女に出会った際、ハッキリとした経緯は忘れたが、過去に仕事の足しになる事もあるかと書籍等で読んだ、地元の奇妙な伝承の話を一つ、二つばかり披露して見せたところ、彼女が存外に興味を示して聞き入ってきたのだ。
彼女自身、元々非科学的で神秘的なものに対する興味が強い人だったらしい。もっと詳しく話を聞きたいとせがまれ、結局彼女のアパートに赴く事になったのだが、流石に手ぶらではなんなので、この菓子を持参したという訳である。
これは盛岡にチョクチョク来るようなお客で、「南部煎餅も盛岡冷麺も飽きた」という人に対して、よく私が勧めている菓子であった。甘い味付けをして、黄精(おうせい)という滋養強壮の漢方薬を混ぜて練り上げた餅菓子である。
甘くて柔らかく、食べやすい事から万人受けするだろうという事で、過去に何度か盛岡市は神明町の長澤屋にお客を案内した。ウケはそこそこに良かったと思う。
因みに今回はというと、ケーキの様な洋菓子でもと最初は思ったものの、彼女が「久しぶりに和菓子も食べたい」といった意味の事を何かの折に語っていたのを思い出し、結局これを持参する次第となった訳である。
さて、アパートに辿りついたは良いが、今更ながら「まさか、彼女は悪質な商売の勧誘員か何かで、まんまと自分は引っ掛けられたのかな?」などと一瞬、穿った見方をしてしまった。
「よくよく考えてみれば不自然ではないか。何度か会って話しただけの人間を、まともな女性がそう簡単に家に招き入れるなんて事があるだろうか?」と。
「まあ、その時はその時、毅然と断れば良い話だし。仮に部屋の奥から更に強面な『説得役』のオッサンが出て来たとしても、殺されるワケでもなし、ひたすら頑として撥ね付ければよいか」などと思い直し、覚悟を決めると私はドアチャイムを鳴らす決心をつけたのである。
で、結果はというと、これは取り越し苦労であった。彼女は純粋に私の伝承話を聞きたかっただけらしい。部屋に案内されると、そこには心地よいアロマの香りが漂っていた。そして、棚の上には色々な可愛らしい動物を模った焼き物や、子供の姿を模した様なデザインの天使像が幾つも飾ってあった。
全体的にややクラシカルではあるが変に古臭くも無く、シックで非常に落ち着いた品の良いインテリアである。
私はこういった非常に品が良い生活空間というものには余り縁が無かった。実家に関しては、両親はさほど育ちが良い訳でもなく、インテリアのセンスなどとは無縁の環境で育った人達だったし、私自身、特にその事に不満を持つ事も無かった。
勿論、母が何時もキッチリ掃除、片付けはしていたので清潔に保たれてこそいたが、趣味の良い空間とは言い難い、良くも悪くも何処か雑多で庶民的な生活空間であった。
父などは、こういった人達に対するやっかみも有ったのだろうか、このような環境に住まう人を見ると、偶にではあるが「キザな奴」とか「不合理・無意味」などと、まあ、そのように語る事もあった。
そんな環境に育った私の事である、元々が懶惰(らんだ)な性格であったのと相まって、このように上品な生活環境など縁も所縁も無い様な生き方をしてきた。故にこういった品の良い環境に入ると、どう振る舞って良いか一瞬分からなくなり戸惑ってしまう。
ボーっと突っ立っている私に対して、彼女は苦笑しながらテーブルの前に座るように促してきた。促されるがままに座り、ふっと目を見やると、天使の焼き物が置いてある棚の上に、占いに使われるカード一式があった。
私はなんの気なしに「占い、好きなんですか?」と聞いてみた。
「うん、まあね。でも暇つぶし程度かな、別に入れ込んでいる訳でもないけど。なんなら占ってみる?」
と聞かれたものの今回は遠慮しておく事にした。別に悪い暗示が出る事に不安を感じたのでもない、どうも気乗りがしなかったのだ。
さて、そこそこの世間話の後、私は彼女のリクエスト通り、幾つかの伝承話を紹介する事となった。貞女おかんの墓、ムカデ姫の墓、銭神の蜥蜴、三ツ石神社の鬼の手形、酒買い地蔵、その他諸々……。
概ね話が終わろうとする頃になって、彼女は突然身を乗り出して、「ねえ、こういう不思議な話、信じる?」と私に聞いてきた。
……さて、どう答えたものか。私はこのような超常的な伝承というものに関して、亡霊やら祟りやらが本当に有るか否かという問いに関して、答える事をどちらかと言えば避けてきた方だ。
これらは飽くまで大昔の人達がどうやって人生の教訓を効率的に後世に伝えられるか、という試行錯誤の中で副産物的に生み出されたものであって、余り非現実的な問いと絡めて考える事は、寧ろこういった伝承の本質を見誤るのでは、と認識していたからだ。
とはいえ、「んなもん嘘に決まっているでしょ」、と答えてみせるのも実に味気ない。数秒考えた後に私は「自分は実際に見たわけでも何でもないけど、こういった話は大好きだし、消え去って欲しくないと思っているんです。現実的じゃないと無碍(むげ)に否定して、妙に得意がるような生き方はしたくないですよね」と答えた。とはいえ、未だにこの答えが正しかったのかどうか、今一つ確証が持てない。
それを聞くや彼女はおもむろに立ち上がり、先ほどのカードに目を向け、「最近、よく怖い夢をよく見るんだ……ドッペルゲンガーって知っている?」と聞いてきた。
「ドッペルゲンガー?あの、見て暫くしたら自分が死ぬとかなんとかってヤツでしたよね?」
「うん、そう。でも現実じゃなくて夢の中でね。遠くがボンヤリ霞がかっていて、凄く綺麗な水が流れている砂地をひたすら歩いていると、一回りくらい若い自分が現れるのね。それで、今まで生きた中の、色々な間違いを散々に責めてくるんだ……。で、最後にみんな許してあげるから、一緒にあの霞の向こうに行こうって誘われるんだけれど、いつもそこで目が覚めちゃう」
一瞬、私の背筋に強烈な悪寒が走った。まさか、これは偶然か、それとも何かの必然か。
(いや、所詮は夢じゃないか。色々なストレスや記憶の断片が投影されているだけだ。)
そう自らに言い聞かせても、いいようの無い不安がジワジワと湧き出してくる。まるで真っ黒で粘ついた、コールタールのような不安感が私の心の中を満たしてゆくのが分かった。
「実は最近、私もそっくりな夢を見ているんです」
不安とそれに伴う動揺からか、ついポロリと私の口から思いもよらないセリフが出てしまった。言った直後に『しまった!』と思ったが時既に遅し。
彼女もこれには大いに驚いたようであった。彼女も私同様、背筋に悪寒が走ったようだった。
「それで、どんな夢?」
彼女は恐る恐るといった風で聞いてきた。私は記憶の限り夢の内容を語って聞かせると、その後の数秒間はどちらも言葉を失い、部屋の中はシンと静まり返った。この静けさは実時間だとたかだか10~15秒程度だった筈だが、私には永遠の様にも感じられるものであった。もしかすれば、彼女も同様に感じていたのかもしれない。
その沈黙を打ち破るかの様に彼女は口を開いた。
「次にその夢を見たとして、もし誘われたらついて行く?」
その表情は不安げであった。
不謹慎かもしれないが、この時私は数年前に恋破れたある女性の事を思い出していた。若く、女性の気持ちに無頓着で、ただひたすら傲慢だった若い頃。別れの時が来る数週間前、遠からず訪れるであろう二人の関係の終焉に対する予感からか、その女性はとてもよく似た不安げで寂しげな表情を見せた事があった。
(なんて事だ、あれから何年も経っているのに自分は少しも成長していないのか)
自分の性根の座らなさに慄然としつつも、私は努めて平静を装って答えた。
「夢というものに神秘的な力を感じたり、それを信じたりする事は決して否定しませんよ。ただ、過度に恐れないようにしましょう。案外、不幸っていうものは、夢そのものよりも、寧ろこういった不安が引き寄せるものだと思うんです」
彼女の表情に少しだけ安堵の表情が見て取れた。正直、私もホッとした。
「ああそうだ、アロマのお守り作ってみたんだ。一つ上げます」
彼女はそう言うと小さなスプレーの瓶を渡してきた。
「これ、アロマオイルをブレンドしたものなんだけど、不安になった時に一吹きして嗅いでみて。もしかしたら効果があるかも。ええと、マジョラムと、ラベンダーと、オレンジスイートと……あれ?あとなんだっけ?」
私は有難く頂くことにした。その際、ふっと窓際を見ると、小さな子供が書いたであろう家族の絵があった。
(ここに描かれているのは彼女の夫と子供達だろうか)
そう思いながら眺めていると、彼女は笑いながら答えた。
「私の家族、夫と二人の男の子なんだけど、今は事情があって一人暮らしさせて貰っているんだ」
まあ、人生なんてそんなものだろう。この際、正直に白状しよう。ちょっと変なところはあるものの、容姿は中々に綺麗で朗らかな雰囲気の女性だし、一瞬下心が芽生えたのは事実だ。とはいえ、私には家庭のある女性に対して食指を伸ばす様な不道徳をはたらく気も無かった。
少々ガッカリしたのは事実だが、これはこれで良かったのかもしれない、と考えるようにしている。紅茶を一杯頂き、近い内に再び会ってお互いの報告をし合おうという約束をしてこの日は御暇するする事とした。
玄関を出ると、外は夕焼に染まった景色が広がっていた。帰る道すがら、私は赤く染まった雲を見上げていた。それは何故か、普段のそれよりも色鮮やかで心地よく感じられたのだった。
※まだ続きますが、相変わらず次回が何時になるのか未定です。
半年以上も前の話になりますが、2015年6月5日、厚労省の人口動態調査が発表されました。その内容は当県にとって、実に不名誉極まりないものでした。ついに、人口10万人当たりの自殺率でトップになってしまったのです。
県内で2014年自殺した人数は341人で、人口10万人当たりの自殺率は26.6人となったそうです。これまでずっと首位であった秋田県を抜き、遂にトップとなってしまったのです。
男性では50代、女性では70~80代が多かったそうで、原因は病気を苦にしたものが一番多かったとの事です。
県は2015年4月、自殺率の高さを重く見て、障がい福祉課に「自殺総合対策担当」を設け、対策の強化に乗り出しました。鬱等に関わる対策も打っているようです。
また、人口動態調査により、脳卒中の死亡率が162.3と、これまた全国一位である事がわかりました。
県では塩分を控えめにした料理をとることや、適切な運動を続けるなどの呼びかけに力を入れています。
さて、これで自殺が減るんでしょうか。是非減って欲しいと思いますし、多くの人が事態の打開の為に頑張っているのだと思います。
ただ、これは非常に根が深い問題である印象が私にはあります。といいますのも、ここ19年間秋田県がトップを走っていた訳ですが、岩手県だって自殺率に関して、それ以前から、かなり上位の方をウロウロしていました。2011年の震災による絶望、混乱だけが自殺率上昇の原因とも思えません。
もっと大昔から、残念な事に当県には自殺を誘発しやすい要素が社会の中にあったのではないか。これは秋田県だろうが青森県だろうが同様にです。
パッと思いつくのは就職難、低賃金と重労働、それに伴う健康維持の困難さ、コミュニティの濃密な人間関係が仇になるケース、日照時間の少ない冬季における鬱悪化の可能性……。これら複数の要因が複雑に絡み合って起こっているのではないか。
確か、平成十五年あたりからの自殺率のグラフを見ていると、大体2位から4位あたりをウロウロしています。特に自殺率が急増したのは平成10(1998)年あたりからだと言われていますので、震災の遥か以前から、既に高い自殺率を示していたのです。
※補足しますと、1998年前後は現在に見られる強烈な不景気が本格的に始まった時期であり、岩手県以外でも全国的に見て自殺率が跳ね上がった時期でもありました。念のため。
それから脳卒中の多さに関してですが、もちろん食生活といった要素も大きな原因の一つでしょうが、実はそれだけストレスフルな生活環境に身を置いている人が多いという事の傍証になりはしないでしょうか。
特に自殺率が高いのが県の内陸北部、沿岸北部なそうです。そういえばもう10年は昔になるでしょうか、達増知事が県内の若者たちからの質問や悩みに答える、といったローカル番組をやっていました。
そのなかで、沿岸北部の久慈市から来たという青年が自分の住む町の自殺率の高さを嘆いていました。沿岸北部は以前から多くの医師を派遣したりして、県が自殺対策に躍起になっていた地域です。
見た所、非常に朴訥な雰囲気の好青年といった風で、彼は「とても良い街なのに、なぜ自殺者がこんなに出るのだろう」と語っていました。自殺率の高さの原因がわからず、ただ戸惑っているように見えました。
何と言えば良いのでしょうか、彼やその取り巻きにとっては、とても良い街なのだと思います。しかし、自ら命を絶った人達からすれば、きっと、生きにくく、やりきれない街だったという事ではないでしょうか。
例えばですが、イジメにあわずに順風満帆な学生生活を送った人は、学生時代の思い出を語る時、きっと頭の中にある思い出は一点のシミも無い輝かしいもので、スムーズな学生生活を送る為にイジメられっ子を直接、或いは間接的に踏み付けにしてしまったり、或いはイジメを傍観した記憶は無意識に消し去られるか、又は矮小化して尤もらしく正当化してしまう事が多いのではないでしょうか。
つまり、酷い表現かもしれませんが、彼は運よくイジメに会わず、美しい思い出の中に生きる元学生と同じ視点で自殺問題を語っているのだと思われます。そして厄介な事に、そういった人は往々にして、基本的に極めて善良な人々でもあります。
それ故に、これは公の機関がもっと出張って強力に自殺の分析と防止に当たらなければなりません。個々人の良識に任せている割合が大きければ大きいほど自殺率の低減効果は低いでしょう。
何故なら、個々人やそのコミュニティの中に宿る良識というものは、時として人を殺す凶器となるとなる危険性があるものだと私は思うのです。
そういった良識の暴走を防ぎ、人々の自覚を喚起するには、公的機関と専門家の強力な動員が必要不可欠なのです。
クドイかもしれませんが、末端の人々やコミュニティの良識だけに頼ってはいけません。それは思いの外に危険なものです。
県内で2014年自殺した人数は341人で、人口10万人当たりの自殺率は26.6人となったそうです。これまでずっと首位であった秋田県を抜き、遂にトップとなってしまったのです。
男性では50代、女性では70~80代が多かったそうで、原因は病気を苦にしたものが一番多かったとの事です。
県は2015年4月、自殺率の高さを重く見て、障がい福祉課に「自殺総合対策担当」を設け、対策の強化に乗り出しました。鬱等に関わる対策も打っているようです。
また、人口動態調査により、脳卒中の死亡率が162.3と、これまた全国一位である事がわかりました。
県では塩分を控えめにした料理をとることや、適切な運動を続けるなどの呼びかけに力を入れています。
さて、これで自殺が減るんでしょうか。是非減って欲しいと思いますし、多くの人が事態の打開の為に頑張っているのだと思います。
ただ、これは非常に根が深い問題である印象が私にはあります。といいますのも、ここ19年間秋田県がトップを走っていた訳ですが、岩手県だって自殺率に関して、それ以前から、かなり上位の方をウロウロしていました。2011年の震災による絶望、混乱だけが自殺率上昇の原因とも思えません。
もっと大昔から、残念な事に当県には自殺を誘発しやすい要素が社会の中にあったのではないか。これは秋田県だろうが青森県だろうが同様にです。
パッと思いつくのは就職難、低賃金と重労働、それに伴う健康維持の困難さ、コミュニティの濃密な人間関係が仇になるケース、日照時間の少ない冬季における鬱悪化の可能性……。これら複数の要因が複雑に絡み合って起こっているのではないか。
確か、平成十五年あたりからの自殺率のグラフを見ていると、大体2位から4位あたりをウロウロしています。特に自殺率が急増したのは平成10(1998)年あたりからだと言われていますので、震災の遥か以前から、既に高い自殺率を示していたのです。
※補足しますと、1998年前後は現在に見られる強烈な不景気が本格的に始まった時期であり、岩手県以外でも全国的に見て自殺率が跳ね上がった時期でもありました。念のため。
それから脳卒中の多さに関してですが、もちろん食生活といった要素も大きな原因の一つでしょうが、実はそれだけストレスフルな生活環境に身を置いている人が多いという事の傍証になりはしないでしょうか。
特に自殺率が高いのが県の内陸北部、沿岸北部なそうです。そういえばもう10年は昔になるでしょうか、達増知事が県内の若者たちからの質問や悩みに答える、といったローカル番組をやっていました。
そのなかで、沿岸北部の久慈市から来たという青年が自分の住む町の自殺率の高さを嘆いていました。沿岸北部は以前から多くの医師を派遣したりして、県が自殺対策に躍起になっていた地域です。
見た所、非常に朴訥な雰囲気の好青年といった風で、彼は「とても良い街なのに、なぜ自殺者がこんなに出るのだろう」と語っていました。自殺率の高さの原因がわからず、ただ戸惑っているように見えました。
何と言えば良いのでしょうか、彼やその取り巻きにとっては、とても良い街なのだと思います。しかし、自ら命を絶った人達からすれば、きっと、生きにくく、やりきれない街だったという事ではないでしょうか。
例えばですが、イジメにあわずに順風満帆な学生生活を送った人は、学生時代の思い出を語る時、きっと頭の中にある思い出は一点のシミも無い輝かしいもので、スムーズな学生生活を送る為にイジメられっ子を直接、或いは間接的に踏み付けにしてしまったり、或いはイジメを傍観した記憶は無意識に消し去られるか、又は矮小化して尤もらしく正当化してしまう事が多いのではないでしょうか。
つまり、酷い表現かもしれませんが、彼は運よくイジメに会わず、美しい思い出の中に生きる元学生と同じ視点で自殺問題を語っているのだと思われます。そして厄介な事に、そういった人は往々にして、基本的に極めて善良な人々でもあります。
それ故に、これは公の機関がもっと出張って強力に自殺の分析と防止に当たらなければなりません。個々人の良識に任せている割合が大きければ大きいほど自殺率の低減効果は低いでしょう。
何故なら、個々人やそのコミュニティの中に宿る良識というものは、時として人を殺す凶器となるとなる危険性があるものだと私は思うのです。
そういった良識の暴走を防ぎ、人々の自覚を喚起するには、公的機関と専門家の強力な動員が必要不可欠なのです。
クドイかもしれませんが、末端の人々やコミュニティの良識だけに頼ってはいけません。それは思いの外に危険なものです。
さて、ここで一つ問題になるのが、『原則、賃労働やそれに関わる社会活動に従事して、自らの存在意義を確立してみせるのが社会人である』という一般的な価値観の枠組みからはみ出した人々の事です。
子供や年寄、重度の障碍者は勿論除外した上での話ですが、ニート、家事手伝い、働かずに公的扶助で生きる人……色々な人がいます。その多くは概ね第三者から否定的な文脈で語られる事が多かった人達です。
……しかし、彼らは全く世の中の役に立っていないのでしょうか?見ていて腹立たしいかもしれませんが、少なくとも彼らは昨今のデフレ経済の中で、ささやかながら、消費活動を行い、経済に寄与しています。
にも拘らず、そもそも我々は『生産活動に従事しない消費者』に対して何故ここまで強い嫌悪感を抱くのでしょうか。
それはやはり、皆が苦労して生きているところ、楽をして生きているかのように見える事からくる不平等感です。また社会に揉まれていない、または揉まれる事から逃げたという軽蔑心も、或いはあるかもしれません。
私個人の考えを申し上げますと、働かないよりも働いた方が断然良いと思っています。それはやはり、仕事を通して色々な体験やら出会いによって、視野を広げるチャンスが増えるからです。
とはいえ、生産活動に従事していない、ドロップアウトした人達を問答無用とばかりに無理やり働かせるのが良いとも思いません。
といいますのも、世の中には明らかに『労働そのものに向いていない人種』或いは『性急に就職させるとかえって危険な人種』というものが存在するように思うからです。もしかすれば、これは禁句かもしれませんが。
例えば、極端なケースかもしれませんが、私が従事するタクシー業界には、たまにですが、明らかに重度のADHDやアスペルガーのような、発達障害を抱えているのでは、と疑いたくなるような人間が紛れ込んで来ることがあります。
その多くは周囲から尻を叩かれて働きに出てきたは良いけれど、人並みに仕事が覚えられない、お客様と最低限のコミュニケーションがとれない、仕事をトチってばかり、といった人達で、これによって業界全体でどれ程の損失が出ているのか計り知れません。
この前起こった軽井沢のスキーバスの事故はどうでしょうか。これなども、本来ならば大型バスの運転適性に明らかに難があったのにも拘らず、無理矢理乗務させた為に起こった事件と言えます。貧困な老人がリタイヤ出来ず、働かざるをえないという問題も含んだ重大な事件でした。
公的扶助が脆弱な為に、ゆっくり仕事探しも出来ない、職業訓練も出来ない、結局、限られた時間の中で追い立てられる様にブラックな職場に就職して負のスパイラルの中に転落していくしかありません。
さらに精神疾患持ちの場合、病院通いをしながら仕事が出来るような恵まれた環境なんぞ、一流企業でもない限り滅多にありません。
以前も書きましたが、こういった人には正直、腹立たしい人も大勢います。私も今まで何度か不愉快な経験をしてきました。
しかし、こんな人達に対して説教がましい事を語って無理やり働かせたところで、結局のところ会社も顧客も迷惑を被るし、社会的損失もかえって大きくなりはしないか。
何度も言いますが、不平等感を覚えて腹が立つ勤労者の気持ちも理解できます。とはいえ、こういった人種を押し付けられて、迷惑を被っている産業や顧客がこの世には確実に存在するのです。
以前も書いたかもしれませんが、こういった「怠け者を叱り飛ばして働かせろ」と言った議論は、概ね自分とは関係ない何処かの業者なりがその『腹立たしい怠け者』を預かって鍛え直すといった前提で語られている者が多い。
私に言わせれば、これは社会や他者に対して不満の後始末を押しつける発想であり、実に無責任なものでしかありません。これだって考えようによっては、社会や他者に対する甘えの変種ではないのか。
そして、全ての非生産者を色々な手段で追い詰めて、無理やり働かせるような社会規範というものは、実は常に巨大な社会的損失のリスクと隣り合わせの世の中でもあります。
最後にですが、興味深いQ&Аを見つけました。この記事の結びとしたいと思います。
なぜ弱者を抹殺してはいけないのか?
子供や年寄、重度の障碍者は勿論除外した上での話ですが、ニート、家事手伝い、働かずに公的扶助で生きる人……色々な人がいます。その多くは概ね第三者から否定的な文脈で語られる事が多かった人達です。
……しかし、彼らは全く世の中の役に立っていないのでしょうか?見ていて腹立たしいかもしれませんが、少なくとも彼らは昨今のデフレ経済の中で、ささやかながら、消費活動を行い、経済に寄与しています。
にも拘らず、そもそも我々は『生産活動に従事しない消費者』に対して何故ここまで強い嫌悪感を抱くのでしょうか。
それはやはり、皆が苦労して生きているところ、楽をして生きているかのように見える事からくる不平等感です。また社会に揉まれていない、または揉まれる事から逃げたという軽蔑心も、或いはあるかもしれません。
私個人の考えを申し上げますと、働かないよりも働いた方が断然良いと思っています。それはやはり、仕事を通して色々な体験やら出会いによって、視野を広げるチャンスが増えるからです。
とはいえ、生産活動に従事していない、ドロップアウトした人達を問答無用とばかりに無理やり働かせるのが良いとも思いません。
といいますのも、世の中には明らかに『労働そのものに向いていない人種』或いは『性急に就職させるとかえって危険な人種』というものが存在するように思うからです。もしかすれば、これは禁句かもしれませんが。
例えば、極端なケースかもしれませんが、私が従事するタクシー業界には、たまにですが、明らかに重度のADHDやアスペルガーのような、発達障害を抱えているのでは、と疑いたくなるような人間が紛れ込んで来ることがあります。
その多くは周囲から尻を叩かれて働きに出てきたは良いけれど、人並みに仕事が覚えられない、お客様と最低限のコミュニケーションがとれない、仕事をトチってばかり、といった人達で、これによって業界全体でどれ程の損失が出ているのか計り知れません。
この前起こった軽井沢のスキーバスの事故はどうでしょうか。これなども、本来ならば大型バスの運転適性に明らかに難があったのにも拘らず、無理矢理乗務させた為に起こった事件と言えます。貧困な老人がリタイヤ出来ず、働かざるをえないという問題も含んだ重大な事件でした。
公的扶助が脆弱な為に、ゆっくり仕事探しも出来ない、職業訓練も出来ない、結局、限られた時間の中で追い立てられる様にブラックな職場に就職して負のスパイラルの中に転落していくしかありません。
さらに精神疾患持ちの場合、病院通いをしながら仕事が出来るような恵まれた環境なんぞ、一流企業でもない限り滅多にありません。
以前も書きましたが、こういった人には正直、腹立たしい人も大勢います。私も今まで何度か不愉快な経験をしてきました。
しかし、こんな人達に対して説教がましい事を語って無理やり働かせたところで、結局のところ会社も顧客も迷惑を被るし、社会的損失もかえって大きくなりはしないか。
何度も言いますが、不平等感を覚えて腹が立つ勤労者の気持ちも理解できます。とはいえ、こういった人種を押し付けられて、迷惑を被っている産業や顧客がこの世には確実に存在するのです。
以前も書いたかもしれませんが、こういった「怠け者を叱り飛ばして働かせろ」と言った議論は、概ね自分とは関係ない何処かの業者なりがその『腹立たしい怠け者』を預かって鍛え直すといった前提で語られている者が多い。
私に言わせれば、これは社会や他者に対して不満の後始末を押しつける発想であり、実に無責任なものでしかありません。これだって考えようによっては、社会や他者に対する甘えの変種ではないのか。
そして、全ての非生産者を色々な手段で追い詰めて、無理やり働かせるような社会規範というものは、実は常に巨大な社会的損失のリスクと隣り合わせの世の中でもあります。
最後にですが、興味深いQ&Аを見つけました。この記事の結びとしたいと思います。
なぜ弱者を抹殺してはいけないのか?
この『失われた20年』と言われる不況下、多くの日本人が頑張って働いてきました。グローバリズム、規制緩和からくる苛烈な競争……。
一人当たりの労働量は昔より遥かに多くなっています。しかしながら、経済は一向に上向きません。それどころか国民の可処分所得はドンドン下がってきています。
大昔、といっても1980年代頃ですが、この頃には既に『財政規律主義』が存在していました。これはものすごく大雑把に言えば、「現行の社会秩序の中で、不当に甘やかされている既得権益者が存在する。それをシバキ上げて収入源を奪えば、自然に世の中に綺麗なお金が湧いて出てくる筈だ。後は民間の自由競争に任せてさえいれば、自動的に経済が活性化してフェアな世の中になってゆくであろう」といったものでした。
この80年代からあった財政規律論は、バブル崩壊後の規制緩和、自由競争、自己責任論、弱肉強食主義といった思想と非常に親和性が高かった。
しかし、世の多くの人達は、それで経済が活性化したのかと言われれば、「NO」と答えるでしょう。バブル崩壊後の不景気に新たな設備投資をしたり、または新たな市場を切り開くような冒険をしようなどといった、奇特な経営者は滅多にいなかったからです。
多くの経営者が選んだのは、結局人件費や設備投資の削減による持久戦でした。まあ、当然ですよね。
こういった現象に関しては、経済学的な切り口でもっと詳しく原因や処方箋を論じた書物は世に山のように存在すると思います。ただ、私には経済学的知識は全然ありませんので、余り突っ込んだ議論は残念ながら出来ません。
さて、私が今回語りたいのは上記の切り口だけでは説明出来ない、社会の底流に流れる精神文化に関してです。私ごときのオツムでも思いつく事ですから、他の人がとっくに語っている事かもしれませんが、あえて書いてみたいと思います。
それは現代人特有の社会的認知に対する歪みへの疑問です。端的に言えば『労働者とは消費者でもある』という視点の欠如です。
大昔はテレビの様な家電製品も無い、道路や水道といったインフラも無い、「ないない尽くし」の時代でした。ですから、「消費者としての自分」といった問題を脇に置いて、ひたすら働いて生産活動にだけ従事していれば、勝手に物が売れてゆき、一定水準以上の生活が現在より遥かに低いハードルで手に入れる事が出来ました。
つまり、多くの企業の経営者や労働者は、「自分が作った物やサービスがマクロレベルで世の中全体にどのように作用し、最終的にどんな風に自らへと跳ね返って来るのか」という抽象的な問いや、それらに付随する社会的問題に巻き込まれない境遇にあったわけです。
元々、日本社会には大昔の好景気な時代から、ブラックな職業文化が根強く存在していて、既に1970年代には一部知識層から問題視されていたワケですが、それでも尚、この文化が廃れなかったのは、その理不尽な労働に対して企業も年功序列的な出世と昇給で長年の苦労に報いてやる慣習がシッカリとあったからです。
若いうちに理不尽な労働を課されたとしても、将来の安寧を餌に、その多くが正当化される構造があったのです。
また、会社に対して従順に尽くし、職業人として生きてゆく(或いはそういった人の伴侶となる)という生き方は、世間から奇異な目で見られない『承認された存在』になる為の手っ取り早い方法でもありました。
ところが、皆が知っての通り、近年この年功序列的な慣習は崩れつつあります。しかし、抽象的なスローガンのもとで危うい重労働をさせる慣習は形骸化しつつも残ったままです。
そして、経営者でも、社員でも、この事に疑問を持たないか、或いは疑問を持つのは社会的未熟児とするような共通認識は、今現在も極めて強固に残っています。
結果現れたのは自らが消費者であることを忘れた低賃金な労働者達による、チキンレースでした。世の中がお金も無く、休暇もあまりない労働者だらけなのですから、社会全体の消費が冷え込むのは当然です。
そしてこれは何も経済的学的な理由だけではなく、苦労体験というものに対するある種の信仰じみた価値観が世間一般に広く共有されている側面もあるからではないでしょうか。確かに苦労体験というものは、その人の人格形成に大きく寄与する側面があって、それを完全否定出来るものではありません。
とはいえ、それが万能の妙薬でもない事は、皆が薄々知っている事でもあります。実際、自らの苦労体験の上に胡坐をかいて、傍若無人に振る舞う人間だって世の中にはいます。客商売をやっている人間ならば、特に身に覚えがある人が多いのではないでしょうか。
こういう話をすると「それは真の意味での苦労体験をしていない人だからだ。本当の苦労人なら他者への配慮が出来るはずだ」と語る人もいますが、正直、これには同意しかねます。
私が考えるに、大別すると、度の過ぎた苦労体験でも肥やしに出来る人と、肥やしに出来ずにただ人格が歪んでしまう人の二種類が存在していて、苦労体験への盲目的な信仰と希望的観測から『苦労体験=立派な人』というイメージが漠然と信じられているだけのように感じます。
いずれにせよ、そこに根強くあるのは、生産者(労働者)となる以外に社会的承認を確立する事も、金銭を獲る方法も知らない現代社会に生きる我々の根本的な問題点の一つであるように思います。
其の弐に続きます
さて、バスの労働時間に関してですが、これはタクシーと重なる部分もありますし、微妙に異なる部分があります。
例えば、タクシーの場合20時間オーバーの拘束で業務するケースも非常に多いですが、バス(トラックも)の場合は16時間というのが一日当たりの最大拘束のようです。
タクシーの場合、16時間以下の拘束であれば、次の拘束までに8時間の休息を挟めば違法ではない、という部分は同じです。ただ、それ以上拘束した場合では、4時間の仮眠時間を与えねばならず、また、業務終了後に20時間以上の休息時間を与えなばなりません。
ただ、バスの場合は例えば、16時間拘束、14時間拘束、12時間拘束といったような勤務を幾つかの班に分けてローテーションするのが一般的かもしれません。とはいえ、記事にもあるように幾ら何でも休息がたったの8時間というのはあんまりです。これでは家に帰って寝る時間が全然足りません。
中には「間の休息がたったの8時間だとしても、お客を乗せている正味の時間はもっと短いのだから、十分拘束時間内に休めるのでは?」という意見もあるようです。が、現実はそう甘いものではありません。
路線バスにせよ、貸し切りバスにせよ、過労状態にならぬ様に業務中にもに定められた小休止の時間はあったりするらしいですが、実際の所は、次の業務に向けての就業準備や回送運転に食われてしまう事が多く、十分に休めない事が多いのだそうです。
しかし、書類の上ではキッチリ休憩しているものとして処理されているケースも非常に多いようです。
数年前、バス事故の多発を受けて総務省から許認可官庁である国交省に対して、「杓子定規なものではなく、ちゃんと実効性があり、人間の生理として無理のない様な労働環境を実現する法律と指導が必要だ」と指示が出ていました、
しかし、これが思うように全然実行できていない事が分かってしまいました。実際、旅客運輸業に関しては、規制と労働環境のバランスが悪く、しかも世間からの「とにかく安く」といった下方圧力にさらされる事が多い。また、規制緩和以降、会社の数が異様に増えて、指導が追いついていません。
実際、激烈な競争の中、「バレたらその時はその時で……」とばかりに公然と法を犯す業者も多いし、また法を犯して指導を受けたとしても、廃業に追い込まれるほどの行政処分は滅多に下されないのが現状です。
現に、こんな凄惨な事故が数年に一度は起きて大騒ぎになっても尚、「このバス会社自体はロクでもない会社なので潰すべきだが、規制緩和とそれに伴う価格競争自体は依然として正しい」とした意見、空気は現在も世間に強くあり続けているのが現状です。
結局の所、現在、客の立場で出来る事といえば精々のところ、相場よりも異様に安いツアーは利用しないように気を付けることくらいでしょうか。
例えば、タクシーの場合20時間オーバーの拘束で業務するケースも非常に多いですが、バス(トラックも)の場合は16時間というのが一日当たりの最大拘束のようです。
タクシーの場合、16時間以下の拘束であれば、次の拘束までに8時間の休息を挟めば違法ではない、という部分は同じです。ただ、それ以上拘束した場合では、4時間の仮眠時間を与えねばならず、また、業務終了後に20時間以上の休息時間を与えなばなりません。
ただ、バスの場合は例えば、16時間拘束、14時間拘束、12時間拘束といったような勤務を幾つかの班に分けてローテーションするのが一般的かもしれません。とはいえ、記事にもあるように幾ら何でも休息がたったの8時間というのはあんまりです。これでは家に帰って寝る時間が全然足りません。
中には「間の休息がたったの8時間だとしても、お客を乗せている正味の時間はもっと短いのだから、十分拘束時間内に休めるのでは?」という意見もあるようです。が、現実はそう甘いものではありません。
路線バスにせよ、貸し切りバスにせよ、過労状態にならぬ様に業務中にもに定められた小休止の時間はあったりするらしいですが、実際の所は、次の業務に向けての就業準備や回送運転に食われてしまう事が多く、十分に休めない事が多いのだそうです。
しかし、書類の上ではキッチリ休憩しているものとして処理されているケースも非常に多いようです。
数年前、バス事故の多発を受けて総務省から許認可官庁である国交省に対して、「杓子定規なものではなく、ちゃんと実効性があり、人間の生理として無理のない様な労働環境を実現する法律と指導が必要だ」と指示が出ていました、
しかし、これが思うように全然実行できていない事が分かってしまいました。実際、旅客運輸業に関しては、規制と労働環境のバランスが悪く、しかも世間からの「とにかく安く」といった下方圧力にさらされる事が多い。また、規制緩和以降、会社の数が異様に増えて、指導が追いついていません。
実際、激烈な競争の中、「バレたらその時はその時で……」とばかりに公然と法を犯す業者も多いし、また法を犯して指導を受けたとしても、廃業に追い込まれるほどの行政処分は滅多に下されないのが現状です。
現に、こんな凄惨な事故が数年に一度は起きて大騒ぎになっても尚、「このバス会社自体はロクでもない会社なので潰すべきだが、規制緩和とそれに伴う価格競争自体は依然として正しい」とした意見、空気は現在も世間に強くあり続けているのが現状です。
結局の所、現在、客の立場で出来る事といえば精々のところ、相場よりも異様に安いツアーは利用しないように気を付けることくらいでしょうか。