この暑い盛り、私はアイスを入れた袋を片手に歩いていた。保冷の為、このスーパーのビニール袋にはドライアイスが入っていて、そこからゆらゆらとした煙が時折外に流れ出す。
その煙の揺らめきが妙に面白かった。周囲の環境は36℃を越える猛暑で周囲のコンクリートも路面のアスファルトも強烈な熱を帯びている中、場違いな冷気の塊が私の手元に存在しているのである。まるで熱気に満ちた周囲の環境に逆らうようにソロリ、ソロリと袋から流れ落ち、あっと言う間に雲散霧消してゆく白い冷気は、どこか儚くも美しいものに感じられたのだった。
そうこうしている内に彼女の住むアパートの前に辿り着いたのだが、そこには見慣れない外車が一台止まっている。
(はて、あんなクルマを所有している人がこのアパートに居ただろうか、それとも新しい入居者だろうか)
そんな事を考えていたところ、あの女性の部屋から30前後のヒョロリとした男性が出てきたのだった。彼は眉間に深い皺を寄せ、見たところ酷く苛立っている様に感じられた。
咄嗟に私と視線が合い、彼は鋭い眼差しでこちらを一瞥するや、そのまま自動車に飛び乗り、恐ろしく荒っぽいハンドル捌きで駐車場を飛び出して行ったのだった。
(もしや、彼があの女性の夫だろうか?)
去ってゆくクルマを眺めていた私の背後から声がした。
「あ、来てくれたんだ、外でチョット待っててくれない?部屋の中が散らかっているから今片付けてんの」
彼女は明らかに涙声であった。まあ、穏やかではない事態が起こったのだけは間違いない。こんな雰囲気の中である。今日のところは彼女の部屋に上がるのを遠慮しようかとも思ったのだが、結局なし崩し的にお邪魔する事となってしまった。
「あははは!ゴメン、マズいとこ見られちゃったね」
「いや、自分は構わないけど、そっちこそ大丈夫?」
「久々に旦那と喋ったら口論になっちゃった」
「アイスでも食べて頭を冷やしたらいい。丁度いいタイミングだったかもね」
たかだか2か月間ほどの交流でしかなかったが、私と彼女はそこそこに打ち解け、お互い砕けた口調で話すくらいの仲にはなっていた。
一時間ほど私たちはとめどない会話をしていたのだが、突然彼女の口が止まり、室内には一瞬驚くような静寂が広がった。時折、傍のアロマキャンドルからチリチリとした音が聞こえるのみである。
暫くして、彼女はうつむきながらソロリとした風に、ゆっくりと口を開いた。
「ねえ」
「うん?どうかした?」
「なんで旦那の事、聞いてこないの?」
「無理に聞き出す程に興味はないよ」
「絶対に嘘でしょ、それ」
「何が?」
「すぐわかった。それとなくだけれど、周りをキョロキョロ見ていたでしょ」
「あれ、そうだった?」
「部屋の中に残っている旦那の痕跡を見つけ出して、何があったのか推測を働かせようとしていたんでしょ?そうだよね?」
彼女はテーブルの上に飾られている小さな焼き物の天使像に目を落としながら、静かな口調でそのように語った。
(参ったねこりゃ。お見通しか)
「わかったわかった。確かに気になった。でも流石にこれは直接には聞きづらいだろ」
「聞けばいいのに。別にこっちには、後ろめたい事は何も無いし」
そう言われはしたものの、不意に図星を突かれた時点で、既に私の中の覗き見根性はすっかり萎えていた。とはいえ、このまま何も聞かずに終わるのも、少々癪に障るような気もしていた。
「ハイ、じゃあ月並みな質問でいきましょうか。夫婦喧嘩の原因は?」
とりあえず質問をしてみたはいいが、我ながら丁寧とはいえない口調だった。全く大人げない。
「ちょっと、その質問、投げやりっぽくない?」
彼女は苦笑した。
「はい、答えてちょうだい」
「あのさ、あなた、浮気しても一発でバレるタイプだよね」
彼女は大層楽しそうだ。
「もう降参するから、そろそろ教えてくれないか」
「そうだね、う~んと……」
しかし、自分の身に起きた事を語ろうとした瞬間、彼女の表情に若干の曇りと迷いが見え、その口はピタリと止まった。
「……やはり教えてくれなくてもいい」
「ちょっと待って。今どこから喋るのか、頭の中で整理しているから」
「無理していないか?」
「うん、でも聞いて欲しい」
暫くして、彼女は事の次第をポツリポツリと語り出した。それはまるで足を踏み外さぬ様に、自らの足元を慎重に探りつつ、といった風な語り口であった。
自分はある地域ではそれなりに名の知れた経営者であり、政治的実力者の家に嫁いだ人間だという事。
彼女自身の出身は神奈川県で、そこそこの中流家庭で育ち、将来を嘱望されながら育ったが、東京の大学に通っている時に現在の夫に出会ったという事。
彼女の母親はこの結婚に決して必ずしも賛同的ではなかったものの、なんとか説得して結婚にこぎつけた経緯がある事。
夫と子供たち、そして夫の両親と六人で暮らしていた事。
しかし、ある日突然息が詰まりそうな感覚に襲われ、家を飛び出すようにして数ヶ月間、一人暮らしをしてしまっていた事。
この状況に、夫の我慢がそろそろ限界に達しつつある事。
そして最近、家族、特に夫に対する愛情に深い迷いが生じ始めている事。
「おいおい、まさか……」
咄嗟に私の口から驚きの台詞が飛び出していた。
しかし彼女は素早くそれを強く否定するようにかぶりを振った。
「勿論、旦那も子供たちも、お義父さんもお義母さんも好きだし、だからこうやって家庭を築いてこれた。でも……」
色々な逡巡の中からなんとか言葉を絞り出している風であったが、その様子は酷く苦しげであった。
「もういい、わかった」
「ごめん、嫌だった?」
「いや、色々教えてくれてありがとう」
「ごめん、なんか雰囲気悪くなっちゃったね」
「いや気にしなくていい、それよりも何か気晴らしが必要だ」
彼女は暫く「う~ん」と唸りながら考え込んだ後、
「そうだ、この前聞いた遠野に行ってみたい!不思議な伝説が沢山あるところなんでしょ?」
と元気な声で応じてきたのだった。
次に続きます。