コーヒー屋の旦那と床屋の親子  其の壱 | 北奥のドライバー

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思いついた事をつらつらと書いて行こうと思います。

今から四半世紀ほど前、私はあるコーヒー屋に足しげく通っておりました。そこのオヤジはロングヘアーにヘアバンドをはめ、口の周りには髭を蓄え、ジーンズを愛用する一風変わった雰囲気の人物で、初めて見た時には「ありゃりゃ、大昔のヒッピーの生き残りか?」と思わせる風体、そして、その性格は当(まさ)に狷介不羈(けんかいふき)を地で行くような人物でありました。

 

私とこのお店の縁は、姉と義理の兄がこの店主から叱責を受けたところから始まります。姉たちは知り合いとボーリング大会を楽しんだ後、その興奮の余韻が残ったままで、そのお店に入ってコーヒーを頼んだそうですが、その際に大声で騒いでいると、「ドン!」とテーブルにコーヒーを置くや、「他の客様に迷惑ですので、飲んだらさっさと帰ってください!」と叱責を受けたのだとか。

 

元々私は派手派手しい人付き合いが苦手だったし、その手の華やかで騒がしい日々を送るような人種も苦手で、意図的にそういった人間関係から距離を取って暮らす青年でありました。そんな私が初めて姉からこの話を聞いた時、かえってこの変わり者のオヤジに妙な親近感を覚えたのでした。

 

そのお店は自家焙煎を売り物とするスタイルのお店で、一応コーヒーだけではなく、ケーキやシチューといった一般的な「喫茶店メニュー」もある程度用意しているのですが、やはり目玉はコーヒー。しかも原則的にシュガーもミルクも無いブラックのみ。

 

ある日、私は大見栄をきって店のメニューの中で最も苦みの強い「ブルボンサントス」を頼み、その香りと苦みの強さに驚きつつも、素人の分も弁えずコーヒーに関してひとしきり能書きを垂れてしまいました。それを聞いた主人は「ふん!」と鼻を鳴らしこんな事を語り出しました。

 

「俺は何年もコーヒー屋を経営してきているけど、いまだにコーヒーの事を完璧に知らない。テレビや何かでコクがどうとかキレがどうとか言うだろ?でも、俺はそんなものよく分からないし、もっと言えばさして興味もない」

 

「オニイサン、そんな能書きを語る事よりも、純粋にコーヒーの味や香りを楽しんだり、普通の四方山(よもやま)話を楽しんだり、まずはそういう事を覚える方が先決じゃないのかい?」

 

余りの羞恥の念から私の顔に血が上ってきて、赤面しているのがハッキリと分かる。「ああ、自分は何と馬鹿な事を語ってしまったのだろうか」と深い後悔の念がムクムクと湧きだしてくる。

 

すると主人はこちらの心情を察したのか、ゆったりと言い諭すような口調でこんな話を始めたのです。

 

「世の中には『自家焙煎に美味いもの無し』なんて揶揄する者もいる。なるほどスーパーなんかで売っているコーヒー豆は、綿密で慎重なマーケティングの末に生み出されたもので、実に良く出来ている」

 

「それに比べれば自家焙煎ってのは、どうしても作り手の『クセ』が入り込むものだから好き嫌いが分かれがちだ。もちろんコチラも商売だし、自分なりに一生懸命勉強して来たし、なるべく多くの人に喜ばれるものを提供したいと思ってはいるものの、それでもうちのコーヒーを飲んで不味いと思う者はそれなりに出てくるだろう。これはもう避けられないんだ」

 

「例えば明石の鯛ってあるだろ?高級食材の最たるものだ。しかし、鯛という魚が大嫌いな人からすれば、『単に値段が高いばかりの不味い魚』でしかない。どんなに腕によりをかけて調理したところで、この現実は曲げられないんだよ」

 

「ただ、腐った鯛を用いるよりも新鮮な鯛を用いた方が良いに決まっているし、いい加減な調理法よりはキッチリした調理法で料理した方が遥かにマシだ。俺がやっている事も、つまりはそういう事さ」

 

私が自分の不明を恥じて黙りこくってしまったところに、一緒に店舗で働いている奥方がニコニコと笑いながら、内容はよく覚えていないのだが、慰めの言葉をかけてくれたように記憶している。しかしなんとまあ、舌と心にとても苦い出来事でありました。

 

 

(其の弐に続く)