霞のむこう側 その五 | 北奥のドライバー

北奥のドライバー

思いついた事をつらつらと書いて行こうと思います。

7月上旬の事である。私はあるお客を乗せて住宅地を走っていた。住宅地といっても、そこは私とあの『奇妙な女性』が住まう場所である。普段の生活で見慣れた風景の中を走っていると、彼女が視界に入った。

向こうが笑顔で手を振って来たので私も軽く会釈をして応じた。すると後部座席に座っている女性客が恐る恐るといった風で私に質問してきた。

「運転手さん、あの人と知り合いなの?」

私は精々顔を見知っているという程度の間柄である事、細かい素性は良く知らない事を簡潔に伝えた。すると、ルームミラー越しにその女性客は何か言いたげな表情で私を見ていた。

「どうなさりました?まさか、お知り合いでしたか?」

すると、その客は「知っているも何も、私が生まれ育った田舎じゃそれなりに有名な人。名士様の家に嫁いできた奥さんよ。でも何故ここに?」と語ったのだが、その言葉使いは何処か刺々しかった。

なるほど、確かに言われてみれば中流家庭の奥様といった雰囲気とも少々違う。ただ、何故そんな人が距離にして自動車で向かえばゆうに片道100キロ前後の走行距離はあろうかという町から、遠く離れたこの盛岡市内で一人暮らしをしているのか。まあ、疑問といえば疑問ではある。

「運転手さんは知らないでしょうけどね……」

女性客は絞り出すような声で、ポツポツと語り出した。

「私の故郷じゃね、名家の家に生まれるか、そのコネにあずかる事でも出来ない限り、生活は大変なの。特に女はね。村社会の面倒な人間関係、少ない職場とべらぼうに安い賃金、女を物扱いするばかりの粗野な男ども。盛岡市内でサラリーマンしている旦那に出会えた私は本当にラッキーだった」

暫し沈黙した後、その女性客は「ふぅ」とため息を吐くと再び語り出した。

「でも、あんな土地でもいい生活している人達が少しはいるんだよね。少なくともあの町の中では無敵といえる人達。他人の苦労なんか預かり知らず、ただお気楽に生きてるのよ」

確かにこいつは田舎町には大なり小なり、ありがちな話でもあるようにも感じられた。

この地元有力者による富と力の独占、そして因習めいた価値観による地域社会に蔓延しがちな同調圧力。これは数値化が困難な要素なので国や自治体が纏め上げるようなデータにはまず出てこない、しかしながら地方に於ける若者の人口流出と地域衰退の決定的な要因の一つといえる。 

どうしても地方は低所得な人間の割合が多いので、なんとか上手く地域の有力者の取り巻きに入るか、或いは公務員にでもなれない限り安定した生活を手に入れられないケースが多い。

その為に余程思慮深く、人柄が良い人物は別としても、下手をすると都会のそれ以上にそういった立場の人間は嫉妬や怨嗟の対象になる可能性も十分にある。

ましてや、そういった事に無自覚に、そして無邪気に人生を謳歌する者が居るとすれば、それは必然的に狭い地域社会の中で悪目立ちもするだろうし、良からぬ噂話のネタにだってされる事もあり得るだろう。

私はこういった話題に触れる度に『地方』というものの『影の部分』を垣間見た気分になるのだ。

幾ら自治体が悪印象払拭のキャンペーンを展開したところで、あるいは田舎暮らしに文化的価値を見いだした『才能溢れる少数派』が百万言費やして弁護したところで、凡庸な能力しか持たぬ、その他大勢の人間にとっては暮らしにくい事に変わりはないのだと思う。

とはいえ、個人的な思いは兎も角として、ここまで自分の生まれ故郷を悪し様に言う人間も珍しい。余程悔しい思いでもしたのだろうか。

(しかし、まさかそんな『社会問題』の当事者とお近づきになっていたとは)

知らなかったとはいえ、私は何とも言えない複雑な気分になったのだった。

「そうでしたか、かなりご苦労なさったんですね。」

こんな貧相な言葉しか出てこなかった。いきなりの展開だったので、何か適切な言葉を選んでかけようにも、自分の鈍い頭がまるでそれに追いつかない。

しかし、その女性客の中にある暗い感情はヒリヒリとした皮膚感覚で私にも伝わって来ていた。

そうこうしている内に目的地に到着するや、女性客は「ごめんなさいね、こんな不愉快な話を聞かせてしまって」と謝罪してきた。

「いえ、この仕事をしていると色々な話を聞く機会が有りますし、これも仕事の内です。それでお客さんの気持ちが少しでも軽くなったのなら、それはそれで運転手冥利というものです。まあ、お気になさらず……」

私はその様に応じ、乗客を降ろしたのだった。

私は盛岡市内の中心地に戻る間、物思いに耽る事となった。

(あの朗らかな彼女にそんな地域社会の憎まれ役という一面があったとはね……しかし、これまで一度も彼女の中には傲慢さや強欲な性質を感じる事は無かった。そこはかとない孤独を感じる事こそ何度か有ったが……)

それから暫くの間、胸の奥に籠ったような、悶々とした感覚と彼女への疑念は中々スッキリとは晴れず、結果的に彼女とのコミュニケーションにも微妙な影を落とす事となってしまったのだった。

※つづきます