人のモチベーションは十人十色。

正義の味方を演じることで、自分の承認欲求を満たしている人も多い。

厄介なのは自分の“いい人”具合を際立たせるために他の誰かを批判の対象にしてしまうことだ。

自分がいかに“いい人”であるかの基準をどこかに設けないといけないと思う気持ちがそうさせるのだろう。

このような状況はあらゆるところで散見される。
インターネット上の書き込み、商談の場、コミュニティーの中でのコミニケーションの場など。

注目しないといけないのはその発言によってその人が何を得ようとしているかだ。

自分の承認欲求を満たすことにフォーカスしている場合、その真意を汲み取れないことが多々ある。

この前、空港のカウンターで乗客とおぼしき人が航空会社の決まりで自分の要求ができないことを伝えられるとそのカウンターの女性にずっと「おかしいだろう」と詰め寄っている現場を見かけた。
(だいたいのクレームの現場では「普通◯◯だろう」というフレーズが繰り返される)

どう見ても自分のニーズをそのディスカッションからは導き出せない事は明白だったが、自分の主張が航空会社のレギュレーションよりも正しいことを証明したいかのように見えた。

それはお客様の声か何かの形で航空会社に意見を後日行えば良いことで、そのカウンターの女性にはその事実をその場で覆すことができないことを早急に理解すべきではないかと思う。何せその後でずっと待っている人が僕も含めて何人もいるのだから…。

このパターンはいい人や正当性をモチベーションにしている場合だが、それ以外にも自分の知識や専門性をアピールしたいという人もたくさんいる。

誰かの発言や失言をピックアップしてインターネットで調べれば大抵の事は“答え”が出てくるので、それを躍起になって書き込みをしてくるような人もたくさんいる。

小さい頃から親に「失敗することはダメなことだ」と繰り返し教育されてきた名残もあるのかも知れない。

大きく報道されたあおり運転の男性も、生きてきた環境が彼を作り上げてきてしまったように感じる。

彼なりの正義がやはりそこには存在するのだろうが、それが世間一般のスタンダードから大きく逸脱すると逮捕されたりするというわけだ。

その人にとっての正義は、場合によっては反社会的な行為と認識されることがあるので、柔軟な思考で物事を判断できる能力というのもこれから価値観が多様化していく中で持つ必要があるのではないだろうか。

Car Concent Costオフィシャルサイト