本日、本当にしさしぶりで、西八王子の八王子図書館本館へ行ってきたのだ。


ぴゅーっと自転車漕いでな。


もちろん、落語のシーデーを借りてくるのが目的だが、ぶっちゃけたところ、めぼしいのはほとんど借りてしまって、残っているのは当代立川談志五代目三遊亭円楽ぐらいのものであって、談志も五代目円楽も、ちょっとも噺が面白いことないと、ワタイらなんぞは思うのである。


それぞれ、五代目小さん六代目圓生の高弟とはとても思えんので、それがゆえにしばらくご無沙汰していたのだ。


思い起こすに、三ヶ月以上ご無沙汰している。


しかしながら、以前、ライブラリがほとんど総入れ替えになったことがあって、もしかして今日あたりそんなことになってへんかしらんと、わずかばかりの期待を持って出かけたわけだ。


残念ながら、ラインナップは変わっておらんじゃった。


けれど、せっかく来たのであるから、なんぞ借りて帰らんともったいないと思い、しょうことなく五代目円楽のシーデーを連れて帰ったのである。


ネタは『紺屋高尾』(『こうやたかお』と読んどくれ)『あわびのし』のカップリングのやつにした。


なぜか。


『あわびのし』は、上方落語では『祝いのし』。いわずと知れた三代目の十八番である。


『三代目って誰?』ですか。


頼んないこといいなはんなやあんた。上方落語で三代目といえば、三代目桂春團治に決まってまんがなあんた。


三代目の『祝いのし』といえば、あの『うけたながまが』でっしゃろ。


あれを五代目円楽がやると、どれほどつまらなくなるか、いっぺん聴いてみたかったのである。


もうひとつの『紺屋高尾』は、『傾城にまことなしとはたが言うた』の名せりふでお馴染みの、非常によくできた夢たっぷりの有名な人情噺で、誰が演ってもそれなりに面白くなるから、円楽のでもまあ聴けんことなかろと考えたわけだ。


噺の筋立て自体は『紺屋高尾』で検索エンジンをぶん回せばなんぼでも出てくるのでそれを見ていただくとして、主人公の久蔵が憧れの高尾太夫との対面を果たしたとき、煙草を勧められるシーンがあって、そこで刻み煙草に関する四方山話が挟まったのだ。


刻み煙草は、一時期絶滅の危機に瀕したらしい。


キセルで刻みを吸う人間が激減したのを受け、もう全銘柄を廃止しようということになった。


それに対し、強固に異を唱えたのが誰あろう、時の沖縄開発政務次官立川談志その人だったらしいのだ。


理由は「刻み煙草が消えると、落語が分からなくなっちまう」ということらしい。


すごいねどうも。


ワタイらなんぞ、テキのおかげで、こうして今煙草を愉しめるわけや。


これはもう、足を向けて眠れんワイ。


テキがどこに住んだはるか知らんけど。