座右の銘がこれで、何がいけないのか。
「右は右、左は左」
その中に含まれる意味はその人の中にあるもので、私はそれでいいと思う。
むしろ、私も実は同じ座右の銘であって、彼の気持ちがよくわかるのである。
私としては「右は右、左は左、他人は他人、自分は自分」という文章になるのではあるけれど。
座右の銘とは、確かに自分を戒めるためのものでもあり、ある意味では自分の目標でもある。
当たり前のように、右は右で左は左。
右が左になることはないし、左が右になることもないです。
鏡で見ると、右は左となるし左は右となるけれど、決して右は右であって左は左であるのです。
決して代わることも変わることもない。
自分は自分自身でしかなく、自分であることに誇りを持たなければいけない。
どんなに憧れていても、自分がその人になることはないのだから。
だからこその座右の銘であるとおもうのです。
ある女性が「これってハムラビ法典ですよね?座右の銘とは自分を戒めるものだと思うのですが…?」と聞いた。
何がいけないのだ?
そもそも、彼女はハムラビ法典をしっているのであろうか?
むしろハムラビ法典で言われるのは「目には目を、歯には歯を」であって、それと「右は右、左は左」が一致することはないのである。
そして、ハムラビ法典とは犯罪に対して厳罰を与えると言うものではなく、あくまでも公平性をもったものであり、過剰な報復を防ぐための法律でもある。
それを、「やられたらやり返す」と同じ意味に取られたのであっては、勉強不足というものではないだろうか。
自分の勉強不足を棚に上げて、他人をその様に責めるというのは、あまりにも自意識過剰というか自信過剰というか……
ぜひそれが自信の無知であるということを知って頂きたいものです。
「ハムラビ法典ですよね?」と言われたことも間違い。
ハムラビ法典の解釈としても間違い。
「右は右、左は左」が座右の銘ではないというのも間違い。
彼女は二重にも三重にも自分の恥を晒したというわけである。
あたかも彼自身が無知であり、見下したかのような言い様で。
座右の銘とは、あくまでも自分自身を戒めるための文句であり、それが他人に理解されるものかどうかは関係ないのである。
自分の中での解釈と理解。
他人の中での解釈と理解。
違っていて当たり前なのだから、それはお互いに認めるべきものではないだろうか。
もしも誰かの座右の銘が自分の中で分からないのであれば、それは本人に聞いてしかるべきものであって、勝手な解釈はしてはいけない。
「他人は他人、自分は自分」というのも、決して「他人は自分に関係ないから」と関係やつながりを否定するものではない。
「自分は自分であって他人にはなれない、だから自分自身を磨きなさい」ということであり、他人とのつながりを切ってしまうわけではないのです。
当然、悩んでいる人がいれば相談にのるし、困っていれば助ける。
その中でも、いろんなものに流されるわけではなく、自分というものをしっかりと持って行動できる、それを目指しているだけのことなのです。
彼が自分と同じ座右の銘である事に驚きもしたけれど、私は彼が自分でそれを座右の銘だと言ったことが、とてもステキなことだと思ったし、彼を理解したいと思いました。

