最近教育に対して子供の個性や自発性に合わせた対応が不十分だと問題になっている。
良い学校に入って知識を吸収するだけ吸収するという事にたいして、本人がそこに目的とか、将来性を見出せない。知識の吸収する目的が何なのかわからなければ、意欲がなくなるのも当然だと思う。
実際、自分は、勉強する事の意味が分からなかった。逆に頭がいいほうではなかったので、点数張り出されて比較されるのはますます卑屈になったり、多少なりともコンプレックスになっていると思う。
だからといって、「悔しいと思わないのか?」と言われてもしっくりこなかった。
2002年にゆとり教育が始まり、2013年から脱ゆとり教育となっているらしいが、そこに対する新たな壁が、勉強をする意味が分からない、でも強要されるという点で無理が生じているのでしょうね。
今現在の社会にも一貫した行動哲学があるわけでもなく、何を基準に生きていけばいいのか不透明な部分でで、仕事にやり気が出ないとか、生きがいが持てないとか、それと全く同じことだと思います。
最近かじって読んだぐらいですが、1500年頃に王陽明が説いた「陽明学」という本を読んで、今の時代風にアレンジした形で取り込めればいいなと感じました。良い生き方のヒントがそこにあるんじゃないかなってそんなあいまいな感じです。
要約を抜粋しました。
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陽明学は”物を格(ただ)す心”の学問ともいわれて心即理とは、心を”性”(天から賦与された純粋な善性)と”情”(感情とおり、
・心即理
・致良知
・知行合一
してあらわれる心の動き)に分別した上で”性、情”をあわせた心そのものが”理”に他ならないという考え方です。
生まれたときから心と理(体)は一体であり、心があとから付け加わったものではなく、その心が私欲により曇っていなければ心の本来のあり方が理と合致するので、心の外の物事や心の外の理はないというもので、端的にいえば鏡面のような心を持つということです。
致良知とは、”良知※”を全面的に発揮することを意味し、これに従う限りその行動は善なるものとされる上、”良知”に基づく行動は外的な規範に束縛されない(”無善無悪”)という考え方です。
※)貴賤にかかわらず万人が心の内にもつ先天的な道徳知であり、また人間の生命力の根元でもあるもの、人間に先天的に備わっている善悪是非の判断能力を指す。
知行合一とは、知(知ること)と行(行うこと)は同じ心の良知から発する作用であり、分離不可能であるとする考えです。
要は、知って行わないのは、未だ知らないことと同じであり、いくら知識があっても行動が伴わなければ意味がなく実践重視が肝要であるということです。
解釈の方向性によると、右より似なりかねないという点では、解釈を間違ってはいけないと言う点はありますが、決して宗教ではなく、自分の心の中にあって、私欲を除外したものが善いとされる考えで、
一番自分的にガツンときたのは、「知行同一」行うことと、知っていることは同一であって同一のものであって、行動を伴わない知識は知っていると言えない。
という点です。
最近むやみに本を読んで勉強はしていたけど、行動に移したってものがいくつあるものなのか、、、、って点で考えさせられました。
教育においても、学生時代学んだことが知識、
社会に出からが行動。
学校での知識吸収段階で、社会で堂役に立つのかの距離を縮めて、自分の頭で考えて、正解を導き出すことがよい教育になるのかと思っています。(・∀・)イイネ!
内容はあくまでまとまりのない主観ですので宜しくお願いします笑