韓国の現状⑧誇大妄想の史実の捏造。光化門広場の世宗大王と李舜臣。 | 「ぶわっ」

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ソウルの中心といえば光化門前の大通り「世宗路」界隈といえる。この広い世宗路の中に「光化門広場」がある。このあたりがローソクデモで大群衆で埋め尽くされている光景をテレビで見た人も多いことだろう。今回は世宗路、光化門広場、および周辺の光景を紹介する。

 

 

光化門広場の北には光化門がある。その奥は景福宮がある。ここが朝鮮王朝(李氏朝鮮)の王宮である。
かつては光化門の内側、景福宮の広大な敷地の一部に朝鮮総督府の建物があった。ここは戦後は韓国の国会議事堂、中央庁を経て韓国国立博物館となっていたのだが1995年に金泳三大統領に爆破解体された。

 


かつての朝鮮総督府の建物。その前に光化門。手前の大通りが世宗路。

 

現在の光化門の光景。広い空き地に見えるのが光化門広場、車道はこの広場の左右にある。

 

光化門に向かって右側に大きな塀がある。

 

この一画を囲む長い塀には「議政府」と書かれている。これは何かと言えば建設予定地である。

2015年の「東亜日報」はこのような記事を載せている。
「朝鮮時代の最高官庁である議政府(ウィジョンブ)の建物が2019年までに復元され、一般に公開される。昨年7月、東亜(トンア)日報が初めて、ソウル光化門(クァンファムン)市民広場で議政府の建物跡が発掘されたことを報じた。ソウル市は歴史的重要性と象徴性を考慮し、最近になって、復元の決断を下した。」

この写真は2019年10月に撮影したのだがあるのは塀だけで何の建物も復元されてはいない。建設予定が遅れているようだ。

 

光化門あたりの地図。↓。

https://map.konest.com/dforum/761

コネスト韓国地図


 

光化門に向かって左側には政府ソウル庁舎がある。右手前が在韓アメリカ大使館。

白いテントが並んでいるが普段はテントはない。この日は大掛かりな中途採用の企業説明会が行われていた。テントは採用する企業のブースである。在韓の日本企業も採用すべく参加していた。

 


写真の右が政府ソウル庁舎。左がソウル庁舎の別館と外交部。渡り廊下のような通路で左右のビルがつながっている。この向かって左のビルの隣に↓世宗文化会館がある。


光化門に向かって左側、世宗文化会館。中には大ホールがある。



光化門に向かって右側、世宗文化会館の向かい側にひときわ目立つのが大きなアメリカ大使館の建物である。アメリカ大使館を警備する韓国警察。ものすごく厳重な警戒体制をとっている。日本大使館の警備とは比較にならない。

 


「米軍撤去!」

「自由韓国党解体!」

 大胆にもアメリカ大使館のすぐそばで「米軍撤去!」「自由韓国党解体!」の看板を出して一人デモしている。


この反米一人デモが看板に大きい文字で批判している「自由韓国党」というのは韓国の野党第一党で親米反北朝鮮を掲げる保守政党である。ムン・ジェイン政権を支持し、アメリカ軍は韓国から出ていけという保守派へ抗議のためのアピールである。
 これまで李明博、朴槿恵元大統領を出し政権与党だった。過去は「セヌリ党」「ハンナラ党」だったが今は「自由韓国党」と言う党名になっている。従北ムン・ジェインや北朝鮮へ反感を持つ保守系の人の圧倒的な支持を得ている。もちろん北朝鮮も自由韓国党を目の仇にしている。
 北朝鮮の朝鮮労働党機関紙「労働新聞」は昨年の6月6日、「天下逆賊の群れ『チャハンダン』に対する南朝鮮(韓国)民心の呪詛と憤怒」という自由韓国党をぼろくそに批判する記事を掲載した。
 この記事では自由韓国党を「反民族的で反人民的な本性とファッショ気質、歴史と民族の前で犯した洗い流せない罪悪で、南朝鮮人民の呪詛、憤怒、排撃の対象」となっているとこき下ろしている。


 余談だがこれは韓国でよく見られる「一人デモ 1인 시위(一人示威)」と呼ばれるもので一人でプラカードを持ったりして行う示威活動、デモ活動である。韓国でデモを行う場合、「集会および示威に関する法律(집회 및 시위에 관한 법률、集示法)」があり複数の人が公共の場所デモを行うには届出が必要となる。しかしこういう一人デモは届け出の対象にはならないうえ、デモを制止する法的根拠を見つけることが難しい。そのためたとえば大使館前といった法的にデモが禁止されているような場所でもだいたい黙認されている。
 



在韓国アメリカ大使館のちょうど前あたりの光化門広場に李氏朝鮮第四代の王である「世宗大王」の像と功績を称える広場があってたくさんの石柱がある。
石柱には世宗大王の功績が刻印されているのだがよく見れば怪しいものもある。

世宗大王の偉大な?功績の一つが日本の対馬を攻撃して大勝利したというものがある。
言うまでもないがこれは真っ赤な嘘だ。対馬を攻める世宗大王軍のレリーフが浮き彫りにされている。
いかにも大勝利といった雰囲気だが・・・・・。


これは日本では「応永の外寇」(おうえいのがいこう)と言われている。
室町時代の応永26年(1419年)に李氏朝鮮の世宗大王の命令で朝鮮軍が対馬へ攻めてきた事件である。

朝鮮では己亥東征(기해동정)と言われる。
このレリーフを見ればいかにも世宗大王軍が大勝利して対馬の日本軍が敗北し降参している光景だ。だが実際はその正反対である。
6月20日に朝鮮の大軍が攻めてきたとき対馬の主力の軍が島を留守にしていた。
そのためまったく無防備の対馬は朝鮮側の記録によると船129隻を奪い、家1939戸を燃やし、114人を斬首、21人を捕虜にした。また倭寇に捕らわれていた明国人女131人を救出したとされている。その後対馬全島を侵略しようとした朝鮮軍に対して対馬側は「壱岐」の松浦党に援軍を要請すると同時に険難な糠岳の奥に伏兵を配置して対抗した。この糠岳の10日間の戦闘で朝鮮軍の将軍4人が命を落とし朝鮮兵2500人から3500人が戦死。さらに敗走する朝鮮軍を追い詰めて海岸では軍船まで焼き払われた。朝鮮軍は1万7000人だったが迎え撃った対馬の兵力はわずかに500人だった。


こんな大敗北のさなかに朝鮮は対馬へ「対馬は世宗大王と朝鮮に臣下として従属せよ」と通告してきた。対馬がこれを拒否すると7月3日に世宗大王の侵略軍はすべて撤退した。さらに朝鮮に戻ったあとで対馬から奪還した明人を中国に送還することになったとき「朝鮮軍が対馬勢に敗北した惨状を目撃している明人を帰国させれば我が国の弱点を見せることになる」と官僚が反対したという逸話が記録されているそうだ。対馬侵攻は敗北だったと朝鮮人自身が認めているのだ。
いつもながら朝鮮人は恥を隠して人に知られなければなかったことにするという姑息な民族であることがよくわかるエピソードである。



この上の説明文にはハングルでこんなことが書かれている。
「1419年 世宗大王は 1万7千人の軍を対馬へ送った。これが対馬を征伐する光景である」


いま韓国人が「対馬は韓国領土だ」と主張している。その根拠の一つが世宗大王によるこの1419年の対馬侵略だ。このとき対馬は朝鮮の臣下になることを拒否している。しかしこの事実を歪曲し韓国では世宗大王の侵略で対馬が朝鮮の領土になったとされている。
この光化門広場の石柱でも捏造だらけ対馬の兵が朝鮮人兵士に土下座し屈服させられている。過去を捏造し朝鮮軍大勝利のイメージを描いているのだ。
このように過去を捏造して虚偽捏造の大嘘を展示しているのが嘘つき国家・韓国の日常風景なのである。

 


正面が李舜臣の銅像。

軍事政権の朴正煕元大統領が建設した。  

右の木造の家は沈没したセウオル号関係の建物である。


この銅像が建てられたのは1968年。作者は彫刻家の金世中(キム・セジョン)。朴正熙は「日本が最も恐れる人物の銅像を立てよ」と指示し、この李舜臣の銅像が立てられたというエピソードがある。 


恨日英雄の筆頭と言えば韓国人なら李舜臣の名前をほぼあげる。それほど李舜臣は韓国人の民族主義の象徴となっている。李舜臣の銅像は韓国各地にあるのだがソウルのど真ん中の光化門通りと言えば李舜臣の銅像がイメージされるほど有名である。
だが果たして李舜臣が英雄なのか?といえば疑問符だらけである。まずこの銅像だが李舜臣の身に着けているのは朝鮮の鎧でもなく、手にしているのは朝鮮の刀でもない。韓国人からは「刀は日本刀、鎧は中国風」と批判され「こんな銅像は作り直せ」と罵倒されている始末である。有体に言えばこれは虚像というわけだ。

●韓国「反日英雄像」が手にしているのは「日本刀」と判明、「撤去せよ」と大騒ぎ…「これは降伏のポーズ」の指摘も、笑えぬ韓国「時代考証」の杜撰さ
https://www.sankei.com/west/news/140703/wst1407030062-n1.html


李舜臣銅像の台座の銘板。朴正煕の名前がある。

 

また李舜臣は「露梁海戦(ろりょうかいせん)」でわずか13隻の船で「日本船数千隻を沈め、日本兵数万人を殺した」と韓国では映画にもされている。しかし実島津家の『征韓録』では、最後の露梁海戦で戦死者は26名「其外戦死の人々多し」となっている。
朝鮮側では大勝利の評価が、日本側ではわずかな被害。誇張にも度が過ぎるとはこのことであって言ってみれば朝鮮人の言うことは出鱈目である。たとえば戦時売春婦が日本軍性奴隷なんと20万人の類である。

日本との和議の約束を破って李舜臣率いる朝鮮水軍が攻めてきたが返り討ちにあって李舜臣は戦死。停戦協定がなってから、卑怯にも日本の軍船に追い打ちをかけた李舜臣は日本軍の撃った銃弾に当たって死んだと言われている。
この戦闘では駆けつけた島津軍はじめ日本軍の戦いによって朝鮮水軍が撤退し鳴梁海峡の制海権は日本のものとなって撤退作戦が成功裡に終了したとうのが日本の記録である。海戦に敗北して戦死した李舜臣のどこが英雄なのかさっぱり理解できない。余談だが島津家はこれらの合戦も含め朝鮮での戦で亡くなった朝鮮人慰霊碑まで高野山に立てて菩提を弔っている。

 

 


高野山奥の院にある鹿児島・島津家の墓所。「高麗陣敵味方戦死者供養碑」の説明がある。


供養碑の文面の拡大図。高麗国在陣・・・敵味方・・・・と刻まれている。

 

島津家の墓所。向かって右、木の説明看板の後ろにある背の高い石碑が敵味方供養の碑。

その左にはなぜか英文の石碑がある。鳥居は墓所の結界のしるしである。

 

「露梁海戦(ろりょうかいせん)は、慶長の役における最後の大規模海戦である。慶長3年(1598年)11月18日(和暦/以下同)に無血撤退の双方合意を取り付けた上で撤退しようとした順天城守備の小西行長らに対し、約束を違えて攻撃を加えようとした明・朝鮮水軍と、撤退する船団を援護するために海路出撃した島津軍を中心とした日本軍との間に露梁津で起こった海戦である。小西行長軍はこの戦いの最中、戦闘に参加することなく巨済島への撤退に成功した。」((Wikipediaより引用)

 



光化門広場の李舜臣将軍碑の近く。歩道の上に場違いなテントがあった。

 


脱北の末に亡くなった母と子の遺影。

 

脱北の果ての餓死か 韓国で母子の遺体発見 
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2019/08/post-12760.php


テントの横。

昨年二〇一九年七月三十一日、ソウル南部の賃貸アパートで四十二歳の母親と六歳の息子の遺体が見つかった。死後二カ月と推定され、死因は餓死とみられている。この母親は北朝鮮から韓国に亡命した脱北者だった。部屋には食べ物は唐辛子の粉しかなかった。
これを契機に韓国社会では脱北者への「福祉の死角」が議論されはじめ脱北者への実態に沿った対策や支援拡充などの対応策が求められている。


赤い字は、「金正恩が怖いのか!」と書いてある。

 

テントの中、慰霊場。祭壇には菊の花が。線香はなかった。署名簿が置かれていた。

 

このテントは亡くなった母子を追悼すると同時に脱北者への支援改善を訴える慰霊所である。

脱北者団体などが作ったもので光化門通りの李舜臣将軍の銅像の近くの歩道上にある。



鍾路区には日本食の店がいくつもある。そのなかには店名も日本語という店がいくつもある。
今回目についた二店は「新宿カレー」と「さとる」という居酒屋だ。
「さとる」は慰安婦抗議デモが毎週開かれている日本大使館前にもほど近い場所にある。
「さとる」で日本酒でも飲めば韓国のおかれている「事実と現実」を韓国朝鮮人は(さとる)ことができるだろうか。

「新宿カレー」。乙支路3街から鍾路への道筋にある。夜なのであまり客もいない。新宿という漢字は韓国朝鮮人には読むことができない。
 それにしても「新宿カレー」なんてカレーがあるのだろうか?日本人もびっくりのネーミングである。
 
 
鍾路消防署の建物。消防士は人形である。