「冬に川で遊んだらあかんで」

 

普通だったら、わざわざ寒い時期に寒い川で遊んだりしない。そう母も思っただろうが、私と野呂一家の次男佳隆(ヨシタカ)が外へ遊びに行く時、そう言った。

普段川なんかで遊ばないのに、何故母はこの日そんなことを言ったのか。母親の勘の鋭さは本当に凄いと思う。

 

私と佳隆は、母の言葉にあえて反発するように、いつも遊ぶ芝生の近くの川へ行った。その川は沼と言ってもいいほどビジュアルはよくない。清涼さなどかけらもなかった。

私たちは、真冬の寒い時期に、そこへ遊びに行った。

私の住んでいた町は、毎年冬になれば雪が積もる。その沼にも、薄い氷が張っていた。私はそうっと、氷の上に足を乗せてみた。

歩けるかもしれない。

私は一歩一歩、ゆっくり氷の上を歩いた。

 

「佳隆、こっちおいでや。氷の上歩けるで。」

 

「ほんま?割れへん?」

 

「割れへんよ、ほら。」

 

私はさながらスケーターのように調子に乗って氷の上を滑った。幼稚園児の体重を支えるほどの厚さはあったらしい。

佳隆もそんな私を見て警戒を緩めたのか、そうっと氷の上に乗った。割れない氷を見て緊張が溶けたのか、佳隆は楽しそうに氷の上を歩き始めた。

その時だった。

 

ばしゃん!

 

佳隆の乗っていた氷が割れた。運悪く、薄い氷のところへ行ってしまったんだろう。へそぐらいまで、佳隆は冷水に浸かってしまった。驚いたのか冷たいのか、佳隆は大泣きした。

その様子に私も驚き、思わず駆け寄ろうと足に力を入れた。その時、私の足元の氷も限界がきてしまったようだ。私も足元からドボンと川の水の中に浸かった。

私がいたところは、佳隆のはまったところよりもずっと深かった。パニックになりはしたものの、なんとか私は足を川底につけることに成功した。

ただし、ギリギリだ。背伸びをして、ようやく首から上が水面を出るぐらい。流れもなかったため、私は背伸びをしてようやくできる息をついた。佳隆は、相変わらず泣いていた。

幼い私にも、この状況のまずさは理解していたようだ。私は佳隆に向かって叫んだ。

 

「お母さん呼んできて」

 

佳隆はなかなか泣き止まなかったが、冷たくぐしょぐしょになったズボンをひきずりながらぐずりながらも家の方角へ向かった。

私は、汚い川で、顔だけ外に出していた。

寒い。もう、そんなことしか考えられなかった。

 

しかし、子どもの状況把握能力の低さには笑ってしまう。そんな緊急事態に陥っていた時、近所に住んでいた友達の桑義香(クワ ヨシカ)ちゃんが、たまたま私を見つけた。そしてのんきに、「何しとんの」と聞いてくるのだった。

 

「川にはまってしもた」

 

「そうなん。寒くないん?」

 

「寒いよ。今佳隆にお母さんを呼んできてって言った」

 

「ふーん」

 

こんな会話だった気がする。ただ確実なのは、私も義香ちゃんも、この状況の危険性に気づいていないことだった。

そして佳隆が母を呼んでくるまで、私は義香ちゃんと他愛もない話をしていた。

 

つま先でやっと川底につくほどの深さだ。もし、当時の私があと5センチ背が低かったら、おそらく命を落としていただろう。

そんな命の危険の狭間にいて数分。真っ青になった母がやってきて、冷たくなった体を抱きかかえ、助けてくれた。

 

翌日、佳隆は高熱を出した。冷たい水にへそまで浸かったせいだ、仕方のないことである。

そして、「川には行くな」と言われたにも関わらず言いつけを守らなかった私は、佳隆が熱でひぃひぃ言っているにもかかわらず元気でぴんぴんしていた。

こっぴどく母には怒られ、佳隆の母の悦子おばちゃんにも大目玉をくらった。

 

私のせいで佳隆が熱を出したのは今回で2度目なのである。一度目は、これまた真冬に霧吹きに水を入れて一緒に水遊びをしていたせいだった。

何も学んでいない幼少の時は、本当にトラブルメーカーだったと思う。

 

ちなみに佳隆は野呂一家の中でも一番私たち一家の犠牲になることが多い。一度母は交通事故を起こしたことがある。その時車に乗っていたのは母と泰香と佳隆だった。

状況は詳しくは知らないが、母に分が悪い事故だったらしい。母は前歯と鼻の骨を折る傷を負ったが、不幸中の幸いというもので、泰香と佳隆は無傷だった。

 

佳隆にいつもトラブルに巻き込んでしまって、申し訳ない気持ちになる。

蛇足になるかもしれないが、今現在野呂一家で一番のトラブルメーカーは佳隆である。佳隆は高校を高い頻度でさぼり、ぎりぎりの成績で卒業した。

非行に走る佳隆に、悦子おばちゃんも相当参っているらしいという話は母から何度か聞いていた。そして成人した佳隆は今、自衛隊に入ってうまくやっているらしい。

 

さて、話は逸れたが私がかなりおてんばだったという話はこのへんにしておこう。

おてんばだった私がイタズラをした後に待っていたのは、母の怒号。

正直、母よりも怖い人を、私は見たことがない。それぐらい、母は絶対的存在だった。

 

つづく

私が極めて子どもらしく、好奇心旺盛であったことは前回に述べた。

その性格のおかげで、私の子どもの頃は波乱でいっぱいの毎日だった。

 

私は、昆虫が大好きだった。

普通女子は虫とか嫌う。気持ち悪いとか、怖いとか、周りの女の子は虫を毛嫌う。

ところがどっこい、私は虫が大好きだ!

苦手な生き物はムカデとゴキブリ。好きな虫は芋虫とカブトムシととトンボとてんとう虫・・・もう数え切れない。虫が好きなことは今も昔も変わらない。

 

私は幼いころ、「セミ取り名人」と自称し、近くの芝生に生えている木にとまったセミを見つけると絶対捕まえた。100発100中。狙った獲物は逃さない。どんなセミもまかせろ。それぐらい自信満々だったのだ。

 

近所には、野呂一家が住んでいた。

野呂一家には、円花ちゃんという私と一つ年上の女の子がいた。円花ちゃんと私は仲良しで、いつも芝生で一緒に遊んでいた。虫取りも、水遊びも、おやつタイムも、一緒だ。親友と言っても良かった。

私はよく兄と円花ちゃんと虫をとりにいった。円花ちゃんは私がセミをとるのをいつも見てくれていた。円花ちゃんを前に、私は鼻高々だった。

ある日、円花ちゃんがセミの抜け殻を見て言った。

 

「愛子ちゃん、セミの抜け殻が動いとる」

 

見ると、抜け殻がよたよたと幹を登っている。セミの幼虫を初めて見た私は本当に驚いた。迷うことなくその幼虫をゲットし、母のもとへダッシュした。動く抜け殻だ、これは大スクープ!母に、これは動く抜け殻ではなく幼虫だよと教えられた。不思議な気持ちだったが、母のその時の提案に、私はとても感謝している。

 

「愛子、セミが成虫になるところ見よか」

 

それは、本当に神秘的な瞬間だった。虫かごの中の茶色い幼虫が、殻を脱ぎ捨て、キレイな透き通った透明の翼をもつ緑色のセミへと変化した。

そのセミが羽化した時、就寝前であったが、その興奮と驚きで私は目が冴えて仕方がなかった。

 

緑色の成虫。キレイな翼をもつ、セミ。

 

生物の神秘を見た瞬間だった。

 

こんな綺麗な生き物は今までに見たことがなかった。虫かごにいる一匹のセミは黒い瞳をもっていたが、その瞳は明日への希望を映しているように見えた。このセミは、長い地中生活を経て、焦がれに焦がれた外の世界へ飛び出すのだ。

陳腐な言葉でしか表現できない。とにかく私はこの時、本当に、「感動」したのだ。

 

朝起きた時は体は黒くなり、他のセミと何一つ変わりないクマゼミになっていた。

メスだったので全く鳴くことはなかったが、手にそっと乗せて外に行くと、何も躊躇することなく、空に飛び立っていった。

たった半日しか一緒にいなかったのに、我が子の巣立ちを見届けたような気持ちになった。

 

何度も言うが、これほど生物の神秘に触れたのはこれが最初で最後だ。あの感動を、私は死ぬまで忘れることはないだろう。

 

あんな神秘な経験はないが、私はセミ以外にもたくさんの虫を捕まえた。そして同時に、たくさん噛まれた。

オニヤンマに噛まれ、女王アリに噛まれ、ちなみにカメにも噛まれた。

ちなみに蜂に刺されたことは一度もない。蜂は今でも苦手だ。兄がイタズラ半分で蜂の巣を木の棒でつついて、怒った蜂に刺され大泣きしていたのをこの目で見たからだ。

その時から、私にとって蜂は脅威の対象でしかない。

 

私は今でも虫が大好きだ。特に芋虫が好きで、他人から異様なものを見るような目で見られたってかまわない。それぐらい溺愛している。

しかし、昔と変わったことが一つだけある。それは、セミが少し苦手になったことだ。

 

私は小学校3年生までセミとり名人を名乗り続けていた。夏休みになれば、飽きることなくセミを捕まえた。虫かごに隙間ないほどセミを入れて母を気持ち悪がらせたのも、よく覚えている。

しかし、それも小学校3年生までだ。あることをきっかけに、私はセミとりをぱったりやめてしまう。

 

それは、私の家の前の木にとまっていたセミを捕まえた時だ。今まで使っていたアミは破れてしまったので、その時は仕方なく倉庫でほこりをかぶっていたアミを使っていた。

慣れた手つきでセミを捕まえ、あみの中でミンミンとけたたましい声で鳴き、バタバタともがくセミを、ようし今放してやるぞとアミからセミを取り出したその時だった。

 

ぽとっ。

 

「――――――」

 

セミの頭が、取れた。

 

私は、呆然とした。この時使っていたアミは、網目が荒かった。だから、セミの首にまきついてしまったのだ。それに気付かない私がいつもの力でセミを取り出した時に起きた悲劇だった。

 

頭は落ち、頭がなくとも「何かした?」とでもいうように、相変わらずセミは大声で鳴き、アミの中で暴れていた。

 

恐怖。罪悪感。

 

ごめんなさい、ごめんなさい。

どれだけ謝っても、もう遅い。このセミはしばらくすれば動かなくなる。

私がこのセミの尊い命を奪ってしまった。大好きなセミをこんな悲惨な状態にさせてしまったことへの衝撃は凄まじかった。

この事件がきっかけで、私は蝉取りをやめてしまった。頭のないセミを私はその後どうしたのか。そこからは、記憶がないのでわからない。

セミを見るたび、その事件を思い出すので、私は今はセミは苦手なのだ。

 

今私が最も嫌いな生き物は百足であるのだが、それはまたいずれ話すことになるだろうから省略する。

 

さて、前に記したが私は野呂一家と仲良しだった。母も、円花ちゃんの母親の悦子おばちゃんと大の仲良しだったし、兄は円花ちゃんの兄の伸平(私たちは伸君と呼んでいた)、泰香は円花ちゃんの弟の佳隆(ヨシタカ)と仲が良かった。

 

母ー悦子おばちゃん

兄(6)ー伸君(7)

私(4)ー円花ちゃん(5)

泰香(2)ー佳隆(1)

 

こんな感じだ。相模一家と私たちは、いつも一緒だった。

そして中でも子どもらしさをとびぬけてもった私は、一度水難事故を起こしたことがある。それは、野呂一家の次男、佳隆と一緒のときだった。

 

つづく

幼いころの私は、子どもの中の子ども、要するに子どもらしさを凝縮したような子どもだったらしい。

 

親の言うことはきかない。自分勝手に行動する。臆するという言葉を知らない。好奇心は旺盛。などなど、特徴はたくさんあった。

兄の悠也は昔相当母をてこづらせたようだが、私もそれに負けず劣らず、母を困らせた。人の家の畑に侵入し勝手に作物を食べ、それに気付いた母が謝りに行く、なんてことはエピソードをよくきかされる。

 

私の子供らしいエピソードをここに2つあげる。

私は人に対する警戒心をもたなかった。

幼いころ、私は見知らぬ高校生に遊んでもらったことがある。男3人の学ランを着た高校生だ。何故かその時母と兄はおらず、私と妹の泰香だけで遊んでいた。

どういうわけか、私はその高校生に遊んでもらっていた。高いところにのぼるのにだっこしてもらったり、「もう一回、もう一回」と何度もねだったり、ワガママし放題。それでも優しい彼らは「はいはい」と私の言うことを聞いてくれたのだった。

一方泰香は控えめ。私のうしろをちょこちょことついてきて、私に便乗しているようだった。

泰香は今も昔も、人への警戒心が強いのだろうか。

私は名前も顔も知らない高校生に、何の疑いや警戒もなく一緒に遊んでもらった。人懐こさがこの頃からあったようだ。

 

ちなみに私は今でも「人」というものが大好きだ。自分を傷つけるのは人だが、その傷を癒やすのも人なのだ。私はいつだって誰かを支え、誰かに支えられ、そしてそれを実感して生きていきたいと思う。

 

もうひとつの子どもらしいエピソードをあげよう。

私はしょっちゅう迷子になった。

好奇心旺盛で、子どもだから仕方ないかもしれないが、計画性がまったくなかった。

大きなデパートで母が買い物をしている間、私は子どもの遊び場に預けられた。そこは兄や妹だけでなく、親を待つ様々な子どもが室内遊具で遊んでいたスペースだった。

私もしばらくはそこで遊ぶ。けれどまたしばらく経てば、私はいつも遊び場スペースから抜け出してしまうのだった。

何を求め、どうして脱出するのか。幼い私の好奇心をくすぐることがそこにあったのだろうか。広いデパートを歩き、いつもデパートのお姉さんに声をかけてもらい、迷子センターに直行、がいつものパターンである。母は、「あんたは迷子になりすぎて、名前も覚えられてたよ」と言われた。迷子センターの常連客だったようだ。

「ここで遊んでなさい、どこにも行っちゃダメ」そう耳にタコができるぐらい言われたはずなのに・・・。私はその言いつけを守ることがほとんどなかった。

 

そうそう、父はまだこの話に登場していないが、父は何をしていたのだろうか。私は父親に遊んでもらった記憶がない。食卓にいる父しか記憶がない。

父は、高校の教師だったから土日は部活動の指導で家にいることが少なかった。平日は遅くまで残業、土日も部活・・・。家族との時間がとても少なかったのだ。

 

そうなれば、私たち兄弟三人がお母さんっ子になるのは自然である。私たちは明らかに母親から強い影響を受け、深い愛情をもらいながら、子供らしく、すくすくと育っていたのだった。

 

つづく

私は5歳から、幼稚園に通っていた。

その幼稚園には田舎ならではの広々としたグラウンドと充実した遊具があった。ライオンの形をした滑り台や、ヒノキの臭いのする小さなログハウスは、今でも覚えている。

 

私には、仲のいい友達がいた。

矢藤亜里沙ちゃんはショートカットのボーイッシュな子だった。どこか大人じみていて、当時5歳だった私にもその雰囲気は伝わった。亜里沙ちゃんの趣味や好きな色、好きな遊びを、私はとことん真似をした。

「愛子ちゃん、真似しないで」と言われて傷ついたことは、よく覚えている。

 

津田由実ちゃんは、目鼻立ちがくっきりとしていて、三つ編みが似合う見た目がとても可愛らしい子だ。男の子と話すのを恥ずかしがったり、人前に立つことが昔から苦手だった。

私が大きな声で歌を歌ったり、何かと一目はばからない行動をしていると、いつも由実ちゃんからの嫉妬の眼差しを受けた。

母に「いつも由実ちゃんはあたしのことを見てくる」と言ったら、それは嫉妬なのよと教えられた。私が初めて嫉妬という感情を知った時だったと思う。

 

5歳の頃から、そんな人間らしい感情があるんだ・・・。

 

当然のことなのに、私はなぜか感慨深く思ってしまうのである。

 

また、私には井森成海ちゃんという友達もいた。身長がとても低く、運動が得意な子だった。しかし、成海ちゃんは亜里沙ちゃんや由実ちゃんとは違って特別仲が良かったわけではない。では何故この子の名前を出したかというと、私がブランコに乗っていて思い切り漕ぎあげた時、誤って成海ちゃんを思い切り蹴飛ばしてしまったのことがあるからだ。

成海ちゃんは思い切り飛ばされ、盛大にこけた。私はパニックになりながらもすぐに成海ちゃんのもとへ行き、ごめんねごめんねとひたすら謝った。

成海ちゃんは、笑って許してくれた。

「大丈夫だよ」と、泣かずに笑って、そう言った。

 

これが、私が覚えている限り最初に人を傷つけた事件だ。わざとでなくても、これは幼少期の私にとって衝撃的なことだった。

人を傷つけた。

けれど、成海ちゃんは泣かずに、笑って、「大丈夫」と言ってくれた。

5歳の女の子がブランコで思い切り蹴られて、大丈夫なはずがない。その時の成海ちゃんの笑顔が、25歳の私の頭から離れない。

成海ちゃんの「大丈夫」という言葉は、心の私の傷を明らかに浅くした。

「大丈夫」と笑顔で言える心の強さと優しさが、私は羨ましい。

 

ちなみに妹の泰香は、幼少期に私と同じくブランコで人とぶつかったことがあるが、それがトラウマでブランコは今でも苦手だという。

 

話は変わって、幼稚園児というのは単純でもある。100円で買える幸せに、私は毎週土日が楽しみで仕方なかった。

幼稚園のない日、昼食に、近くの駄菓子屋で買える100円に満たないブタメン。私と兄と泰香は母から100円ずつもらい、近所の駄菓子屋でブタメンを買った。

ふたの裏に隠された「アタリ」を見つけるのに、ありもしない魔法や裏技を何度も開発したのは子供らしい思い出である。

家に帰って、お湯を注ぎ、3分。100円で買える幸せに、私たち兄弟は満足していた。

おとなになった今では、100円という金額は取るに足らない額かもしれない。けれど5歳の私からすれば、幸せを買える額だったのだ。

その子どもの頃の単純さが、無垢さが、どうしても、羨ましくて仕方ない。

母がいて、兄がいて、泰香がいて、みんなで食べるブタメン。100円で幸せになれたあの頃に、一度でいいから戻ってみたい。

 

25歳になった今では、もはや「幸せってなんだろう」と思ってしまうのだから。

私の人生前半を語るにおいて、「本」や「物語」というものの存在は欠かせない。

なんといっても小学校を卒業するまで、私は大の本好きだったのだ。

幼稚園までは絵本、小学校に上がってからは小説。文章に携わりながら、私は育ってきた。

 

母は私たち兄弟が寝る前、必ず絵本を読み聞かせてくれた。

私が住んでいた家には、絵本がそれはたくさんあった。「桃太郎」や「浦島太郎」などの著名な昔話はもちろん、ファンタジーな絵本まで、なんでもあった。

毎日私たち兄弟は母の絵本を読む声を子守唄にして眠った。おかげで私は同年代の人よりも昔話には詳しいと思う。

特に好きだったのは、「サンタの国ではね」という本だ。サンタがクリスマス以外の日はどのように過ごしているのか描いた絵本だ。サンタという未知なる存在の普段の生活に私は惹かれに惹かれた。サンタが玩具の実を収穫していたり、サンタ会議に参加したり、いい子がいる家をさがしたり・・・そんな光景に私は心を震わせ、何度も何度も読み返した。

 

母は、私たちに本に親しんでほしいという気持ちを強く持っていたそうだが、悲しいことにその意思を強く受け継いだのは3人兄弟の中で私だけだった。兄の悠也は物語よりもウルトラマンや仮面ライダーのビデオ類の方を好んだし、妹の泰香はひとりで歌を歌いながら踊っていた記憶が強い。

 

私はとにかく本が好きだった。文字の読み書きができない年のときも、母の語り口調を思い出し、ページをめくり、絵を見ながら「自分だけの物語」を作って読んでいたし、文字が少し書けるようになった4~5歳の頃には、母を主人公にした自作絵本を完成させた。今でも母はそれを大切に保管してくれてあるが、今になって見ると人間なのかどうかわからない妙な物体がわけのわからない言葉で支離滅裂なことを喋っている、いかにも「ザ・子供の描いた絵」である。

けれど、幼少ながらも母親への愛の強さはしっかりと伝わる。

 

この「本」という存在が、今後の私の成長のキーになるとは、母はもちろん私も他の誰も、わからなかっただろう。

無自覚ながら、当時、本という存在は私の中で確実に、なくてはならないものだったのだ。

 

つづく