父と母の別居。

我が家にとっては大事件だ。それなのに私は当時のことをほとんど覚えていないのだ。どうでもいいことばかり覚えていて、こんな大事なことを覚えていないのか。

以下は、母から聞いたもので私は一切覚えていない。その点をご了承いただきたい。

 

当事者だった母は当時の記憶が濃く残っている。子ども3人には大変つらい思いをさせたと言っている。

たとえば、別居すると母がお父さん側の両親(母からすれば義父母にあたる)に話した時だった。おばあちゃんのルリ子の悲しみは大層深いもので、いつも私たちをかわいがってくれた祖母は泣きに泣いた。

同じく嘉信(ヨシノブ)も私たちを可愛がってくれたため、しかも別居の原因が母の過ちにあることから、怒りは凄まじかったという。あまりの怒りに、母に手をあげてしまった。

しかし拳を振りかざそうとした祖父の前に、あろうことか、私が祖父の前に立ちはだかった。

 

「お母さんを殴ったらあかん」

 

穏やかな祖父が怒ることなど、今までなかったこと。その祖父が母に手を出すほどに怒ったことで、私は相当怯えていたらしい。泣きながら、そして体は震えながら、それでも大好きな母を守る一心で、震える体で母を祖父から守ろうとしたのだという。

母は涙を流し私を抱きしめたという。

 

・・・なかなかある話ではないと思うが、これは母の記憶にしか存在しない。私は覚えていないし、祖父はもう今は他界してしまっている。

 

「あんたは、昔から大事なものを守ろうという気持ちが強い。今でもそれが受け継がれてるんやな」

 

人情に熱すぎるゆえにたちはだかった壁にぶち当たった時、母はよく私にそう言った。

 

別居といえど、ことは順中満帆にすすんだ、とはいえなかった。

大きな問題は親権だ。

父は兄、もしくは私の親権をもつことを望んだ。何故妹は除外されているのか?もちろん妹を嫌っていたわけではなく、妹はまだ当時3歳で、子育て経験の乏しい父が男手1つで育てるには難しい年齢だったのだ。

一方母は、子ども3人とも父に譲る気は一切なかった。自分が過ちをしておいて・・・と思うかもしれないが、ここは当事者にしかわからないところだ。

 

本当なのか?と疑う話がある。母は自分の生まれ育った自分の故郷で私たちを連れて生活するつもりだった。しかし別居する前に、親権を父にとられまいと兄だけ実家に送ってしまった。

そして残った私。私の親権争いは凄まじく、父と母で私と腕を引っ張りあったという。本当なのだろうか?私はもちろん、覚えていない。

この時、右に左に強く引っ張られ、私は痛くて泣き叫んだという。

 

おそらく、離婚する前提で別居を決めていたのだろう。養育費に関して、母は父から一切受け取らないことにした。

幸運なことに母は看護師の資格をもっていた。看護師はいつでもどこでも需要の無くならない稀有な資格だ。これで私たち3人を養おうと考えていた。

 

ただし、高校以降・・・つまりは大学・専門学校へ進学する時は学費を援助してほしい。

 

養育費は一切なし。しかし高校以降の学費は一部援助する。

これが、父と母の間で交わした金銭的約束だった。

 

どういう流れでそうなったかは分からないが、私たち3人の親権は母に譲られた。

 

私が覚えているのは、母の実家に帰る日に行われた、近所で深いかかわりがあった人たちとのお別れ会だ。いつも遊んでいた野呂一家や近所のこどもたち、幼稚園の友達。お菓子や美味しい食べ物、大好きな友達と家族に囲まれ、楽しい気持ちになった。

 

「ばいばい」

 

車の窓から身を乗り出し、皆の顔が見えなくなるまで手を振り続けた。

その「ばいばい」に、私は大して深い意味を込めていなかった。「ちょっと旅行行ってくるね」という感覚だ。

 

まさかもうここに戻ってくることはないと、6歳の私にわかっただろうか。

 

彼らに会うことはないと、6歳の私にわかっただろうか。

 

まったくこことは違う環境でこれから生きていくと、6歳の私にわかっただろうか。

 

答えはNOだ。

 

たくさん遊んだ広い芝生。

 

柿の木の種を植えて、本当に芽が生え木になると信じ水をあげ続けた小さな花壇。

 

首をつっこんで抜けなくなった、アパートの支柱。

 

ブタメンを買いに行った駄菓子屋さん。

 

セミの羽化する瞬間を見た、寝室。

 

6年間過ごしてきた、アパートの一室。

 

寡黙ではあったけれど、優しかった父。

 

――それらは、全て「過去」という箱の中に詰め込まれ、引っ越しに荷物とは別に詰め込まれた。

 

私はお父さんなんか嫌いといつも言っていた。

ジョリジョリしたヒゲをいつも私の顔に押し付けてくるのが嫌でたまらなかったのだ。

 

けれど覚えている。

父の膝にのって絵本を読んでもらったこと。

高校のテストの丸つけを手伝ったこと。

 

母の存在が大きすぎて隠れてしまった父の存在感。

 

けれど確かに私は父と暮らしていたのだ。

 

「私、本当はお父さんのこと嫌いじゃなかったよ」

 

実家へ帰る時、何故か私は母へこんなことを口走った。母がそれを聞いてどんな気持ちになったかは想像に難くない。

 

母が

 

「知ってるよ」

 

と私の目を見ず言ったことを、私は何故か印象に残っている。

 

 

私は、今まで生きてきた6年間と別れを告げた。

 

私、相模愛子の初めての「別れ」だった。

 

(小学生編へ続く)

プリンのおじさんという、母の友達がいた。

どうしてプリンのおじさんという呼び方なのかって?いつも会うたびにプリンをくれたからだ。いつもプリンをくれるおじさんに、私たち兄弟はプリンのおじさん、と親しみを込めて呼んだ。

 

後に聞く話だが、プリンのおじさんは電話会社の人だったらしい。我が家に間違い電話をしてしまい、電話に出た母と何故か電話口で意気投合したのがはじまりだときく。

 

プリンのおじさんはとても気さくで優しいおじさんだった。私たち兄弟は3人こぞっておじさんになついて、会うのがいつも楽しみだった。プリンもくれるし、いつも遊んでくれる。

 

当時の私は、幼すぎて、母とプリンのおじさんがどんな関係なのか分からなかった。

 

ある日、私たち兄弟をつれて、母とプリンのおじさんとホテルに行ったことがある。そこはサービスのいいことに、当時流行っていたファミコンが置いてあった。しかも、私たちがプレイしたこともないカセットが置かれており、私たちは夢中で楽しんだ。

 

けれど、夢中になりながらも、背後で母とおじさんがベットの上で裸になっていたことは覚えている。

 

何をしているんだろう、どうして裸になっているんだろう。

 

幼い私は何もわからなかった。けれど幼いながらにその行為が「いけないこと」とわかったのか、その時のことは鮮明に覚えている。

 

母とプリンのおじさんはいつからそんな関係になっていたのか。何もわからない。母は専業主婦だったし私は幼稚園に行っていたから、母の行動のすべては分からない。いつも母と一緒にいたであろう妹の泰香は当時のことを何も覚えていない。

 

いつだったか、父が家出をしたことがある。父と母が大喧嘩をし、父が怒りのあまり家を飛び出したのだ。その時の恐ろしさは今でも覚えている。

 

母は、泣いていた。アパートの狭い一室で、母は泣いた。覚えている限り、あれが私が初めて見た母の涙だった。

 

なにが起こっているのかわからない、けれど母が泣く姿を見て私も悲しくなり、一緒に泣いていたことを覚えている。私も、兄も、泰香も、ただ母が泣いているからという理由で、4人で泣いていた。

 

ただただ、泣いていた。それがどれだけ長い時間だったか、覚えていない。泰香は、泣き疲れて眠ってしまっていた。

 

夫婦仲が険悪になったのはそれからだろうか。記憶はないが、母が当時にことを思い出して語ってくれた。

ある日、私が「ご飯を食べに行きたい」と母に駄々をこねたことがあったそうだ。その時父と母の仲が険悪であったこともあり、以前のように仲良く食事をすることはできない。そういう真実を隠し、母は行けないよと私に言った。

この時私は異常なほどに駄々をこね、お願いだから、お願いだからと泣きながら母に頼んだ。けれど、母は分かっていた。外に食べに行っても、あの時のように家族5人が笑顔で楽しく食事をすることはできないのだと。母は私を抱きしめ、こっそり涙を流したそうだ。

 

それから、父と母の別居が決まったのは、これよりほどない時のことだった。

幼稚園で私は女子のなかでもかなりわんぱくな子どもだった。

室内でお絵かきしたりおままごとをしている女の子がいたが、私はそれよりも外でかけまわって遊んだり、ドッチボールをして男の子と遊んでいるほうが楽しかった。

 

そんなある日、一人の外国からきた男の子が転園してきた。その男の子の名はロベルト。日本語はあまり話せなかったが、体力はあり、ドッジボールや外の遊びをすると彼に勝てる人はいなかった。

当時は皆ロベルトを羨ましがった。私もその中のひとりだ。

 

しかし、いつのまにかロベルトは園からいなくなっていた。

 

転園したのか、それとも不登校になったのか、わからないが・・・本当に、気づけばいなかったのだ。

私が最後に見たロベルトは、思いつく限りだと、泣いている顔だ。

ロベルトは最初こそ注目の的だったが、性格は少し攻撃的だった。日本語がうまく使えないから仕方ないのだが、相手に自分の意思が伝わらないと怒り、つい拳で語ってしまう有様だった。そのため次第にロベルトは周囲から疎まれ、いじめにあうようになっていった。

 

ある日ケンカをして、先生たちに泣きながら取り押さえられていたのが、私が彼を見た最後の記憶だ。ロベルトは体格も幼稚園児離れしており、他の男の子よりもひとまわり大きかった。そのため先生たちも取り押さえることに苦労しただろう。

 

おそらくそれが、私が生まれて初めて目にした「いじめ」である。こんな幼い頃からいじめというのは存在するのだ。

そして子どもであるから、悪意なないだけ余計に質が悪い。

 

いじめといえば、私はこの頃いじめの被害者になったことはない。しかし、嫌われてしまったことはある。

当時よく男の子と遊んでいたため、私はたくさんの男の子を好きになっていた。じゃんけんが強いから、だとかよくわからない理由で好きになっていのだ。

もちろん今となっては、あんなのが恋愛でないことは分かっている。しかし幼いながら、恋愛というものがデリケートな話題であることはよくわかっていた。

 

私が特に印象に残っている男の子は2人いる。

一人は、枝村昌善(エダムラ マサヨシ)君だ。私は彼のことを「まっちゃん」と呼んでいた。

彼とは多分幼稚園の中で一番仲が良かった。うちの幼稚園では背の順で並ぶことが多かったが、私は女子の中で一番背が高く、まっちゃんは男の子の中で一番大きかった。

そんな単純な接点だったが、私とまっちゃんはとても仲良くなった。

 

まっちゃんとの当時の思い出は多くない。しかし、私が高校生になってから彼の存在感がグンと大きくなることは、当時の誰もが知る由もない。

 

そして、松阪敏一(マツサカ トシカズ)君。彼は、私をとことん嫌っていた。

最初はただの友達だった。けれどなんとなく意味もなく好きになり、仲の良い女の子に「実は敏一君のことが好きなんや」と言っていた。もちろん、「誰にも言わないで」という言葉も忘れずに。

しかし、その子はその言葉を忘れてしまったようだ。その友達は私が敏一君のことを好きなことを、他の誰でもない敏一くん本人にばらしてしまったのだ。

幼いながら、私はその友達に怒りを覚えたことを覚えている。

 

確かに幼い頃は言って良いこと、いけないことの区別がつかない。一人の女の子が、あるクラスメイトに「○○ちゃんって○○君のこと好きなんだってー!」と大声でばらされて泣いていたことを私は覚えている。

彼女ほどひどい状況ではなかったが、彼女と同様に私の好きな人の情報は本人にしっかり伝わった。

 

ある時、私が机の下にもぐってお絵かきをしていた時、急に敏一君に肩を叩かれた。ふと顔をあげて敏一君を見ていると、

 

「僕のことを好きにならないでください」

 

と一言だけ言って、去っていった。

 

それっきり、敏一君は一切私と口を聞いてくれなくなった。

 

告白もしていないのに面と向かってふられた経験。多くの人はそんな経験はそんな経験はないかもしれない。

けれど幼いながら私は経験してしまった。そして幼いながら、ショックだった。

こうして25歳になっても忘れられないほどには、ショックだった。

 

いじめること、秘密を言いふらすこと。

子どもの悪意なき行為だ。

その悪意なき行為を身をもって体験し、そして傍観しながら、私は育った。

 

6歳まで幼稚園でそうして通っていたが、この頃から我が家では少しずつ変化が起きていた。

それは最初はほんの些細な変化ではあったが、少しずつ、私だけでなく、母や父、兄、泰香まで、どんどん侵食していったのだった。

 

つづく

母は、私の中で絶対の存在だった。父があまり家にいないことや母が専業主婦であったこともあり、私たちはとにかく母親にべったりだった。

 

特に真ん中の私の母親っ子ぶりは兄弟の中でも一番だった、と母は言う。兄弟の真ん中だからなんだろうか、と思うこともあるが、本当のところはどうなのかわからない。

ある日家族でどこかへ出かける時、父と母は各自一台ずつ車をもっているが、どういうわけか私は父の車に乗せられた。おママと一緒がいい、と私は散々駄々をこねたが、この時は受け入れられなかった。妹の泰香だけが母の車にのり、私は父の車の後部座席から、後ろをついてくる母の車を泣きながらじっと見ていたことをよく覚えている。

 

このまま、母はどこかへ行ってしまうんじゃないか・・・。

 

根拠のない考えが頭から何故か離れなかった。

 

母は過激なしつけをする一方、こどもをからかって遊ぶことも好きだった。私が一番よく覚えているのは、母の「死んだふりごっこ」である。

急に母が布団の上で倒れ、動かなくなり、喋らなくなる。数え切れないぐらいこの遊びをしても、何度でも私たち兄弟はこのからかいにひっかかった。

 

「何やってんだこいつは」と興ざめたように新聞を読む父を横目に、私たち3人は「起きてよ」「死なないで」と泣きながら母を起こそうと必死だった。叩いたり、体をゆすったりしても、動かない。もちろんしばらくすれば母は起きてくるのだが、今思えば子どもの純粋さを利用した悪い遊びなんじゃないかと思う。

私も何度もひっかかっていたためか、最終的には「また嘘なんやろ」と冷静さをもつように律した。しかし泰香は咽び泣くため、だんだん本当に死んだんじゃないかと様子を見に来て、今度は本当に死んでた、と結局泰香と泣くという有様だった。単純である。

 

近い身内が本当に死んでしまったという経験をしたのは、これよりずっと後の19歳の頃のことだ。

私はその時のことを鮮明に覚えているし、今思い出しても涙が出てくる。

人の死が本格的にトラウマになってしまうのは、これより以後の話である。

 

つづく

私は、甘ったれた典型的なゆとり世代の申し子だと思う。

叱られることが大嫌いだし、常識もない。団塊の世代からは疎ましがられるタイプである。

 

こんな人だから、さぞ親は甘やかして育ててきたのだろう・・・他人からはそう見られてもおかしくない。

しかし実際、私の親、とりわけ母親の光は、ほかのどの母親よりも厳しかったと思う。

 

もし今、当時と同じことをしたら児相に通報されるんじゃないか・・・そう思うほど、母のしつけは過激だった。

何故あんなことをしたのか、今母にきくと、「口で何度言ってもきかないから、叩いてわからせるしかなかった」らしい。確かに、自分や兄の素行の悪さを聞けば、そう思ってしまうのも頷ける。

 

ゲンコツやビンタされた数は未知数だが、今でも痛烈に覚えている出来事が2つある。

1つは、火遊びの件である。私は2度火遊びをしてしまったことがあった。喫煙者であった父のライターで遊んでいたのだ。絶対してはいけないときつく言われたのに、私は2度もしてしまったのだ。

母は当時を振り返り、あの時はただひたすら無心だったと言う。火遊びは生命にも関わるものであるから、母は徹底して「しつけ」をした。

その時私が覚えているのは、母の幾度かわからないビンタと、壁に投げ飛ばされ、「ごめんなさい」と謝っても蹴られ殴られ、もう散々だった記憶である。

あれだけは、恐ろしくて恐ろしくて、今でも鮮明に覚えている。そのため私は小学校3年生まで、ライターやマッチを恐ろしくて使えなかった。

ちなみに兄は私よりも強者で、この少々厳しすぎる罰を二度母から受けている。

・・・強者である。

 

もう1つは、外へ放り出されたことである。

私たち兄弟、とりわけ私と兄は、片付けが苦手に加え母の言うことなど全く聞かなかった。いくら「出したら片付けなさい」と言われてもどこ吹く風で、部屋いっぱいにおもちゃを放置して、自由に遊んでいた。

そんな私たちに、母は時々堪忍袋の緒が切れる。「片付けの出来ない子はうちの子じゃありません」と、私たちを家の外に放り出した。その対象はいつも私と兄である。

放り出されて、「ごめんなさい」「あけて」とドンドンと泣きながらドアを叩いた思い出は強く残っている。そしてそれは、季節を問わないため真冬は大変だった。

外へ放置された時間は永遠にも感じられた。実際は数分だったかもしれないが、絶望に叩き落とすには十分な時間だった。

・・・にもかかわらず、私と兄は幾度となく外へ放り出されたのだが。

しばらくすると兄は放り出されることに慣れ、鍵をかけていなかった車の中へ避難して母の怒りのほとぼりを冷めるまで待っていたという事があった。その時母は別の意味で怒っていた。

 

ちなみに、外に放り出すという躾は、お隣の野呂一家のお得意のしつけ方法でもあった。

 

こうして書くと、母を知らない人は「なんてひどい母親なんだ」「虐待だ」と思うだろう。そのため弁明させてもらうが、私は母を虐待した親などと思ったことはない。母を恨んだこともない。

この頃より10年以上後のことになるが、私は心から「この人を母親にもってよかった」と心から思ったことがあるし、兄や妹も同じように思っているだろう。

 

これだけ厳しいしつけをされても、母親はこの世でただ一人しかいない。この世でただ一人の、私が世界で一番愛する人が、母だ。

兄弟三人、全員母への依存心は強い。母がもし急死してしまえば3人とも後を追うんじゃないか・・・そう思うほどに。

 

そうなったのも、小さい頃からへの母親への過剰な愛ゆえであろうか。私は小さい頃、他の人が呆れるほどのお母さんっ子だった。

 

つづく