小学校生活で色濃く残っている思い出。それは学年で言うなら2年生と6年生だ。

2年生の時の私はただの純粋なだけの子どもだったのか?当時の私を、大人になった今傍目で見てみたいと思う。無理なことではあるが。

 

早くも、私は2年生になった。そこで環境は大きく変化した。

 

同級生は4人。そんなこじんまりとしすぎた小さなクラスに、新しい同級生が加わった。

 

深井寿昌(フカイ トシマサ)・・・隣の県から小学校の近隣に引っ越してきたようだ。

そしてもちろん担任の先生も変わる。私たちの担任の先生は、諏訪部風馬(スワベフウマ)という若い男の人になった。諏訪部先生はその年に私たちの学校に転任してきた先生だった。難しい漢字の先生だな、と思った記憶がある。

先生の年齢ははっきり覚えてないが、20代前半だった記憶がある。もしかしたら、ピカピカの新米教師だったのかもしれない。だとしたら・・・残酷なことをしたと思う。

 

まず、ニューカマーの寿昌と諏訪部先生に待っていたのは残酷な現実だった。

田舎の学校の子どもは元気で無邪気?当たっている。しかし・・・残酷さもそこに入る。

 

私たちがまず彼らにしたことは、覚えているのは、まず寿昌をいじめにいじめぬいた。「ヨソモノ」だったからだ。寿昌は元々性格が攻撃的だった。いつも何かに対して怒っており、怒る時はいつも腕を組んで眉毛をキリッと上げ、猛烈に怒った。ときには暴力行使もあった。

どうしてそんなに攻撃的だったのか?私たちが彼をいじめたからかもしれない。

・・・私たちのせいで彼をそうさせたのだとしたら、本当に申し訳ないことをしたと思う。

 

私の同級生で、枝岡初実という女の子がいた。私は当時ははっちゃんと読んでいた。はっちゃんが寿昌に対しどんな対応をしていたのかは覚えていないが、ある日私たちがはっちゃんと運動場で遊んでいる時に、寿昌がいきなり乱入し、はっちゃんの腕をがしっと掴んだ。そしていきなり、こう叫んだのだ。

 

「初実ちゃんは、僕のもんやで!」

 

一同、まずは言葉のとおり、「ポカン」であった。

何を言っているんだ、こいつは。

そして寿昌がはっちゃんを好きだという噂は一気に学校中に広まった。全校生徒50人ほどの学校だ。噂が広まるスピードもすごい。

ちなみに、その年に入学してきた後輩で、奥田國一(オクダクニカズ)という男の子がいた。彼も何を思ったのか、登校中にはっちゃんに大声で告白するという事件(?)が起こった。

こうしてはっちゃんが学校のモテ女子として学校中で冷やかされ、二次被害を被ることになった。

 

話を戻すが、寿昌のいじめはなかなか収まらなかった。行動が攻撃的であるに加え、いきなりはっちゃんに告白するという、読めない言動。それが拍車をかけたのかもしれないが、なによりも「ヨソモノ」に対する私たちの意識が一番よくなかったのだと思う。

 

そして明らかにイジメがあったのに、担任の諏訪部先生は一体何をしていたのか。何かアクションを起こしたのだろうか。残念ながら、私の記憶上で彼が何かをした記憶はない。せいぜい、クラス内の喧嘩を止めることぐらいだった。

 

おそらく、諏訪部先生は私たちに「おてあげ」状態だったのだろう。私たちは、完全に諏訪部先生を「なめて」いた。諏訪部先生とは呼ばずに「すわっち」と呼び、先生の優しさにつけこんで言うことを全く聞かない。俗に言う、「学級崩壊」が起こっていた。

 

聞いたことがある。小学生は子どもだが先生を見ている。特に、先生の持つ権力。先生が私たちに甘くなんでも言うことをきいてくれると思えば子どもは「この先生には何をしてもいい」と思い、言うことを聞かなくなる。諏訪部先生は大人しい人だったのだと思う。怒ることもなく、ただオロオロしているイメージが強い。そこにつけこまれたのではないかと思う。

・・・なんて、他人事のように書くが、本当に申し訳ないことをしたと思う。

 

私も言うことを聞かなかったが、特に同級生の華重の先生への反抗は凄まじかった。先生の言うことなど死んでも聞くものか、と言わんばかりの態度で、先生の言うことなすことに文句をつけていた。

 

しかし、普段は全く怒らない諏訪部先生も、2度ほど激怒したことがある。静かにしなさい、と言っても聞かない私たちに堪忍袋の緒が切れたのだろう。その時は音楽の授業だった。その時は華重ちゃんだけが先生の言うことを聞かず、鍵盤ハーモニカをひきつづけていた。先生はいつものようにオロオロしていた、と思いきや、いきなり大声を出した。

 

「静かにせんか!!!!」

 

急に大声を出した諏訪部先生に、私たちは喋るのをやめ、息を呑んだ。先生が怒った。先生の主な怒りの矛先は華重だった。華重は驚いたのか怖かったのか、その時間はずっと自分の席でシクシク泣いていた。

やはり大人が怒ると怖いもので、先生が怒るとしばらく子どもは言うことを聞く。その時は私もしばらくは先生の顔色をうかがっていた記憶がある。数日経てばまたもとに戻るのだけれど・・・。

 

いじめと、学級崩壊。この教育現場で大きな問題となっている2つを、たった1年間で経験してしまった。

 

あの頃の私はどうしてあんなことをしてしまったのかわからないし、今でも謝りたいと思う。

3年生か4年生になって、他の学校に転勤になった諏訪部先生に私は一度会ったことがある。しかし目が一度合ったもののすぐに目を逸らされ、話しかけることができなかった。

よほど、私たちとはもう関わりたくないのだろう。子どもながらにそう思い、その時初めて自分のしたことを後悔した記憶がある。

 

そして寿昌のほうは、実は4年生で他校へ転校してしまったのだ。2年生の終わり頃からほとんど学校に来なくなっていた寿昌だったが、ついに転校してしまったのだ。3年生になってまったく顔を見なくなっていたので、私からすれば「いつのまにかいなくなっていた」という感覚だった。

けれどいじめを苦にして転校したのなら、これほど申し訳ないことはない。

高校生になって、寿昌が戻ってきたという情報を聞いた。祖父母が住んでいるため帰省したらしい。会ってみる?と聞かれた時、私は思わず首を振った。どんな顔して会えばいいのかわからなかったのだ。寿昌にしてみれば、思い出したくもない記憶だろう。そして、そんないじめの張本人に会いたいなんて、思うはずがなかった。そして私も、何を話せばいいかわからない――。

 

でも今となってみれば、会って謝ればよかったと思う。許してもらえるとは思わないが、それでも何もしないよりは・・・きっと、そのほうがよかったと思う。

 

つづく

負けず嫌いだったという話は前回した。

今回はその負けず嫌いの最たる例を思い出しながらここに記そうと思う。

 

まず、田舎のイメージを都会の人に聞くと、「みんな優しい」「いじめなんてなさそう」という声を聞くことがある。

美しい自然から人の心も美しくなる、という幻想を抱いているのだろうが、実際はそんなことはない。田舎に住んでいようが都会に住んでいようが、本質的には何も変わりない。もし違うとすれば、田舎の子どもは都会の子どもより少し「ソトモノ」への敵対心が強いのではないかと思う。

 

都会に住んでいると、多種多様な人を見かける機会も多い。最初は驚きこそすれ、「こんな人もいるんだなぁ」と様々な人を見ていく上で慣れていくのではないか。

しかし田舎は違う。圧倒的に人口が少ないため、少しでも人と違う点があれば周りはそれを噂し、関わりを出来る限りもたないようにする傾向がある。

すべての田舎地域がそうとは言わない。けれど私の町はその傾向が強かった気がする。

 

話を戻すが、私は極度の負けず嫌いだった。たとえ周りから見知らぬ町から来た奴だとか、変な方言を使うだとか言われていじめられても、自分が悪いことをしない限り決して相手に屈しなかった。

 

幸いにも同級生にはそのような輩はいなかったが、1~2歳年上から、私は「ヨソモノ」ということで嫌われ、いじめの対象になっていた。男子には暴力を使われたし、女子には言葉で攻撃をされた。

その記憶が今でも濃く脳内に残っており、そのせいか今でも年上は苦手である。少し怖いのだ。

 

ときには泥や砂を投げつけられ、大きな声で悪口を言われ、滑り台からは蹴り落とされた。

 

しかし私はそれに我慢ならない。「ヨソモノ」であることが悪いことであると思わなかったからだ。

ある日、大嫌いな上級生から、泥団子を投げつけられた。頑張ってかわすが、それに腹を立てたのか、その同級生は私をつかみ、泥団子を私のに押し付けようとしてきた。

 

「食べろよ、うまいぞ」

 

泥団子を持ってニヤニヤしている。これほど人の顔を醜いと思ったことはない。

 

そこまで言うなら食ってやるさ、私はお前の予想なんか遥かに超えることができるんだ。

 

そう心の中で叫び、私は泥団子を思い切りがぶりと頬張った。

 

「うわぁ、こいつほんまに泥団子食ったぞ」

 

上級生は叫び、気持ち悪がって逃げていった。私は口に入った泥をその場で吐き出した。

 

どうしても嫌だった。いじめられっ子で終わりたくなかった。相手の思うつぼになりたくなかったのだ。

・・・負けず嫌いである。

 

私は時折母にそんな嫌なことを家に帰って話した。

当時母は社会福祉協議会で働いていた。給料は少なかったらしいが、残業はほとんどなく、土日休みがあるため、子どもと過ごせる時間を確保できるためそこに働くことに決めたのだそうだ。

夕飯は基本的には祖母が作ってくれたが、洗濯・掃除は休日に母がやってくれた。そのため私は専業主婦だった時と違い忙しそうな母へ、時々「おかあさん、お仕事おつかれさま」と手紙を書いていた。

 

学校のいじめについて母がなんと返してくれたかは覚えていないが、当時のことを振り返り母は

 

「あんたは、『あいこは悪くないもん』って、自分が悪くない限り絶対芯を曲げへんかった。強い子やなって、親ながらに思ったわ」

 

と語っている。

 

その芯の強さは、おとなになっても残っているのだろうか?

 

・・・私には、わからない。

 

つづく

勉強は楽しかった。

 

兄が勉強しているのを傍らで見ていたことや、もともと自作絵本を描いていたので字も少しは書けたこともあって、他の子よりも勉強はできたほうだと思う。

 

自分が知らないことを知ることが楽しかった。習った漢字は誰に言われたわけでもなく何度でもノートに書いて練習した。

私は特に漢字と作文が好きだった。本当に、飽きもせず漢字をノートに書きまくってしまうので、ノートを何冊も使い終わってしまった。ノートがもったいない、と言って母には家で漢字を書く時はノートじゃなくてチラシの裏に書きなさい、と言われたものだ。

当時の女の子は絵を書くのが好きだったし、私も絵を描くのは好きだったが、漢字の練習をしている方がよほど有意義だった。漢字を綺麗に、しっかりとした字で、書いた。

 

どうしてそんなに練習していたのだろうか?それはおそらく、教科書の字に感化されたせいだと思う。当時の私は印刷という技術を知らず、教科書のあの綺麗な自体は「字がとても綺麗な誰かが書いたもの」だと思って疑わなかった。私も教科書の字のような綺麗な字を書けるようになりたい。そう思っていたのを覚えている。

 

また、作文も大好きだ。「せんせい、あのね」という名前のノートがあり、必ず「せんせい、あのね」から書き始めなくてはいけない作文ノートがあった。

先生から与えられたお題について毎度書いていた記憶があるが、私は他の4人の数倍の量の長さの作文を書いていた。先生に「すごい」とほめられるのが、とても嬉しかった。

 

字を書くのが、当時の私の楽しみだったのだ。

 

けれど、小学生で勉強で困ったことがほとんどなかった私だが、ひとつ今でも覚えていることがある。

ひらがなの練習をしていた時、見本通りに書けなかった文字がある。

それが、「か」の字だ。

 

当時ひらがな・カタカタ・漢字を新しく習う時は、手本を見ながら10回ほど書いて、一人ひとり先生に見てもらっていた。私は文字を書くことが得意だったことから、ほとんど何も注意を受けずはなまるをもらっていた。

 

しかし、「か」だけは、上手く書けなかったのだ。

手本をじっくり見て、ゆっくり、丁寧に書くように心がけた。けれど上手く書けず、先生に書き直しを求められた。

書き直しなんて初めてのことで、私は悔しくなっていつもより気をつけて「か」の字を書き、提出した。それでも先生から花マルはもらえなかった。

 

3~4度目にして、ようやくOKがもらえた。よかった、と息をついたが、もらえたのは花マルではなくただのマル。

 

「なんで花マルちゃうん?」

 

私が聞くと、担任の浜地先生は淡々と答えた。

 

「今回は書き直しが多かったからなぁ。花マルはあげられへんよ」

 

花マルはあげられない―――。

 

花マルをもらえていなかった人は多かった。

私だけが、毎度一回で先生から合格の判を押されていて、それをとても誇りに思っていたのだ。

 

けれどこの時初めて、花マルをもらえなかった。

 

それがかなり悔しかったのだろう、その時のことは今でも覚えているし、家に帰ってひたすら、何かにとりつかれているように「か」の字を練習した。

 

この頃から、私の「負けず嫌い」の性格が顕著に現れている。私は人よりも優秀でいたい、という気持ちが人一倍強かったのだ。この頃から、そして今でも。

「か」の字に花マルをもらえなかったのは、おそらく人生で初めての小さな「挫折経験」とでも言えよう。

 

大した失敗ではない、と大人なら笑うだろう。けれどそんな小さな失敗でも、25歳の今でもその時の悔しさを覚えているのだから、大人の思うより子どもにとって「失敗」のショックは大きかったのだ。

 

つづく

何度も言うが、私が引っ越してきたところは山の中にあったぽつんと建っていた。

林やいくつもの坂道を歩き、30分ほど歩いて着く場所に、私の通っていた小学校がある。

自転車通学はなし。そして母も「足腰を強くするため」と、車で送ってくれることは体調不良の時以外はなかった。

 

母も通っていたK小学校に、1997年に私は入学した。

同級生は4人だった。

 

4人。

多くの人は驚くべき数字だろう。少なく過ぎる、廃校寸前じゃないのか。

どちらもその通りだが、田舎の小さな小学校というものはそういうものだ。兄の学年も10人に満たなかった記憶がある。

 

私を含め5人という少人数学級だから、みんな平等で仲良いクラスが築けたのではないか?

おとなになってからこの話をするとよく聞かれるが、そんなことはない。どちらかといえば、5人の中で生き残りをかけたサバイバルゲームが日々繰り広げられていた。

・・・といえば少し大げさな表現になってしまうかもしれないが、巷でよく聞く「スクールカースト」というものがこんな小さな田舎の学校にも存在したのである。

 

そんなこととは知らずに、私は初めての学校に胸を膨らませていた。早く勉強がしたくてたまらなかった。

 

私は何故か昔から物覚えがよかった。兄が家で九九の段の練習をしているのを聞いて、兄よりも先に全部暗記してしまい、母に驚かされたことがある。

 

私の同級生の4人のうち、女子は3人、男子は1人だけだった。

 

官森華重(カンモリ ハナエ)は、とても気の強い女の子だった。勉強は苦手で、年の離れた兄が3人もいる。帰り道も一緒だったこともあり、官森一家にはお世話になった。お兄ちゃんたちもよく遊んでくれたものだ。

 

坪木瀬夏(ツボキ セナ)は、体型がふっくらし、性格もとてもおだやかな子だった。両親が学校の先生をしており、家がとても大きく、年に一度は家族旅行に行っていたので、私は瀬夏ちゃんが羨ましくて仕方がなかった。私の家は離婚してから、お金がなかったのだ。

 

枝岡初実(エダオカ ハツミ)は、小柄でくるくるの目をもった見た目が愛らしい子だ。瀬夏ちゃんと並ぶと、本当に同い年なのか?と誰もが疑問に思っただろう。運動が得意で、剣道一家であり父が教師であることから、剣道・英会話・塾・スイミングなど、様々な習い事をしていた。初実はこの頃から、今に至るまで異性にかなりモテていた。

 

唯一の男の子は、山井勘二(ヤマイ カンジ)だ。柔道を習っていたが特にがっしりとした体型というわけでもなく、中性的な顔・体型をした男の子だった。同級生に男子がいない寂しさから、上級生の男子とよく遊んでいた。華重とは幼馴染の関係にある。

 

華重と、瀬夏と初実と勘二。この4人と私は1つのクラスに集まった。

担任は浜地涼子先生。小柄でぽっちゃりとした中年女性だった。基本的には優しいが、厳しくするべきところでは厳しい先生だった。

 

残念ながら、1年生の頃の記憶は私には多くない。けれどこの4人と私は、1年生のうちは仲が良かった。もちろんこんなに少人数なわけだから、クラス替えもない。

 

仲に亀裂が入り始めるのは、2年生頃からだ。

このK小学校に私は6年間通い続けた。小学校の時代は、私から言わせてもらえば「嵐の前兆」の時代だった。

 

子供らしく、なんでも信じて単純に行動したのは、一体何歳までだっただろう。

傘で空を飛べると思ったのは?

大人は魔法が使えると思ったのは?

サンタがいると信じていたのは?

 

そんなことを信じていた純粋な時代が私にもあった。でもそれは小学校で終わりを告げた。

小学校という、成長の扉を私は叩いたのだった。

 

つづく

父と母の離婚が正式に成立したのは、私が小学校1年生の中頃だったという。その時母からは何も報告がなかった。

 

私は小学校低学年までは、何故かその時、またいつか父と一緒に暮らせるものだと思っていた。「りこん」なんて言葉の意味を知らないどころか、そんな言葉さえ聞いたこともなかった。母は私たちに「りこん」のことをいつ話すつもりだったのだろう。

 

私は父と母の「りこん」について知ることになったのは、友達の一言のせいである。

 

「愛子ちゃんのおばちゃんって、「りこん」したんやろ」

 

私の頭の中にまず浮かんだのは、「?」の一文字。考えても見なかったことだ。友達から「りこん」の意味を知り、そうか、お母さんたちは「りこん」したんだ、と知ってしまった。

 

私はそのことを母に話さなかった。

 

――友達の華重ちゃんから言われたけど、お母さん、お父さんと「りこん」したん?―――

 

―聞けなかった。子どもながら、遠慮したのだ。子どもの勘は、恐ろしいものだと思う。

 

実はこの離婚の話は、私小学校2年生の頃のことだ。これから始まる物語は、私が小学1年生の時から始まる。

 

あたらしい家は、今まで住んでいた街から車で3時間ほど走ったところにある。かなりの田舎で、周りは山しかない。自然に恵まれた、いや、恵まれすぎた土地だった。

 

私たちを笑顔で迎えてくれたのは、母の実の父母だった。

 

母の父、つまり祖父は川口誠二。亭主関白という言葉を体現したような人だ。人付き合いはあまり得意ではないが、家ではよく笑いよく喋る。お酒と野球観戦が大好きな人だ。

そして母の母、祖母は川口ちえ子。年齢の割に見た目が若く、笑顔がかわいらしい人だ。ばーちゃんは、当時「ばあちゃん」と呼ばれるのを嫌い、言葉を少しかわいくして「あーちゃん」と私たちに呼ばせていた。私は祖母のことを三年生まで「あーちゃん」と呼んでいた。

 

私たち相模一家4人と、川口夫妻2人。この6人が、私の新しい家族だった。

 

そして家族ではないが、この家から車で5分ほど走ったところに、母の弟家族が住んでいた。

 

母の弟、つまり私の叔父の川口彰平(ショウヘイ)はこの小さな町の役場に努めていた。外回りの仕事が多いため、かなり顔が広い。

いつも豪快で、叔父もまた亭主関白タイプだ。

 

叔母の春衣(ハルエ)は運動神経抜群でノリのいい人だ。バレーボールを学生時代から続けていて、かなり若々しい。よく私たちの世話を焼いてくれたので、私たち兄弟は叔母のことを親しみをこめて「ハル姉(はるねえ)と呼んだ。そして今もその呼び名は変わらない。

ちなみにハル姉はもうすぐ50歳である。

 

そして川口家には2人の子どもがいた。私たちの従兄弟だ。

 

長女の笑乃(エミノ)と、次女の夢乃(ユメノ)。名前から察することのできるように、かなり仲のいい姉妹だ。笑乃は泰香と同い年で、中学も一緒であったことから仲が良い。

2人は大人の言うことをきちんと聞いた。なんでも反抗する私や兄と大違いだった。だから私たちはよく祖父母に「笑乃と夢乃はいい子なのに、あんたらは~」と比較された。それが非常に嫌だったことを覚えている。

 

しかも比較されたのはそれだけではない。叔父と叔母は勉強も運動もかなりできる方だったそうだが、その血は姉妹2人に受け継がれていた。2人とも成績は優秀だし、運動部に入ればたちまち脚光を浴びた。

特に妹の夢乃はすごかった。成績の順位はいつも一桁。バレーボール部では部長でエースアタッカー。オマケにイケメンの野球部の彼氏つき。なにもかもに恵まれていた。

 

それに比べ、私たち兄弟は・・・。

 

兄は運動神経は良かった。しかし勉強は苦手。

私は運動神経はそこそこ、勉強だけは得意。

妹はどちらも苦手だった。

 

5段階で数値化するとこんな感じだ。

 

悠也 勉2 体5

愛子 勉4 体3

泰香 勉2 体2

笑乃 勉4 体5

夢乃 勉5 体5

 

祖父母は悪意こそなかったと思うが、ところどころで私たち兄弟と川口姉妹を比べた。そのうち劣等感に悩まされたのは、何故か兄弟3人の中で私だけだ。

 

しかし幼いころはそんな安っぽい感情など芽生えなかった。私は従兄弟である笑乃と夢乃を新しい家に来て初めての友達ができたと思い、いつも一緒に遊んでいた。

 

・・・今も仲がいいのか?

残念ながら、正月の時以外は一切関わりをもたないようにしている。

それにもわけがあるのだが、それもおいおい話していくことになるだろう。

 

こうして、新しく家族となった祖父母と、近所の川口一家をはじめとして、私は少しずつ環境に慣れていき、小学校の入学式を迎えようとしていた。

 

つづく