祖父は、桶職人でした。

私が学校から帰ると家の前に座布団を敷いて、長い竹を何度も割って細くしていましたが、それで桶のたがをつくるのです。


あの頃の住まいは、父が子どもの時から住んでいたそうですが、見事に古い長屋でした。もう古いからいくら手を入れても良かったらしく、建築家の父が家の裏には祖父の作業場を、通り側には洋間を増築、狭い家に祖父母、両親と私達姉妹で暮らしていました。


父は三人兄弟の末っ子でしたが、終戦後間もなく2人の兄が相次いで結核に罹り、20歳前後で命を落としたそうです。

祖父母の部屋には、2人の写真が何枚か、額に入れてありましたが、なぜか2人とも美男子で、父の話では長男は水彩画が上手く、二男は鉛筆画が上手く、2人ともとても優秀であったそうです。父もずっと美術部だったそうでよく絵を描いていましたが、思い出せば祖父が毎日、夕方、仕事を終えると茶の間で絵を描いていました。


祖父母は、その狭い長屋に何十年も暮らし、食べるには困らないけれど豊かさも望まず…。

子どもの頃にはわかりませんでしたが、元から2人は呑気で気楽な質だったのでしょうが、2人の息子を亡くせば生きる意欲も無くしてしまいますよね…。更には、長男は結婚していたのですが、その小さな忘形見までもえきりで亡くし。生きていればよし、という人生を選んだのではないでしょうか。それ以上の豊かさは望まないというか、意欲を無くしたのでは、と思うのです。


祖父母は特に私に甘く、姉と喧嘩をすると、どんなに私が悪くても、

「小さい者を泣かすな!」

と姉を叱ったので、姉はよく不公平だと怒っていました…。


祖父は祖母が亡くなった一年後、やはり脳溢血で倒れ、言葉と半身が不自由になりました。神様は残酷ですね、穏やかに、慎ましく生きてきた祖父は、息子を亡くし、妻を亡くし、更には好きな絵を描く細やかな楽しみすらも奪ったのですから。


そして、私が小五の6月、祖父は最期の日を迎えました。

祖父は好きなタバコに火付けたマッチを誤ってゴミ箱に捨ててしまい…我が家は全焼、祖父は命を落としました。




昔の日記より…

あれは小5の6月のこと。

帰りの会の時に先生が、「きょう、〇〇方面で火災があって交通が混雑しているそうです。そちらへ帰る人たちは気をつけて帰ってください」と仰った。その話を聞いた途端、涙が溢れた。何故かはかわらない。なんの根拠もないけれど、「私の家だ」そう思って涙が止まらなかった。
心配してくれた友達が遠回りして一緒に来てくれた。カズシ君の家を過ぎ、パン屋さんを過ぎて、「そんなことないよ!違うよ!」励ましてくれる友達の言葉は嬉しかったけれど、やはり私の家だった。全焼だった。

当時、道を挟んだ向かいの家に、父は小さな設計事務所を構えていた。そこへ行くと、目を真っ赤にした母がいた。いつも優しい事務のお姉さんが沈痛な面持ちで駆け寄って来て、ぎゅっと抱きしめてくれた。
学校ではあんなに不安で動揺したはずなのに、実際に自分の家だったことがわかり、でも、家族の顔を見たら落ち着いたのか、その後は妙に冷静だった。

そして、心配して再び訪ねてくれた友達と話しながら近くの幼稚園まで来た時だった。
私には見覚えがなかったが、おそらくは近所に住んでいたであろうおばあさんが話しかけて来た。
「おじいさん、これから運び出されるんだって?真っ黒だっていうじゃない、可哀想にねぇ」

頭の中が真っ白になった。自分の耳を疑った。思いもよらない言葉だった。
祖父は数年前に脳溢血で倒れ、言葉と身体に少し後遺症が残っていた。小さい頃から忙しい両親よりも、寧ろ祖父母と過ごすことの多かった私は、優しいおじいちゃんが大好きだった。
全焼を知ってからも母たちが何も言わないのは、当然助け出されてどこかにいるからだろうと思い信じて疑わなかった。
だからその言葉はあまりにも衝撃的で、私はその場に声を上げて泣き崩れた。

それから数日後、祖父の葬儀も済み学校へ行くと、先生から新しい教科書を渡され、いつもどおりの学校生活が始まった。
洋品店を営む遠い親戚からは、大きなダンボール箱いっぱいの女性用の衣類が送られてきた。当時私は5年生とはいえ160センチ近い身長がありましたので、中2の姉と母と三人で分けて有り難く使わせていただいた。
友達のお母さんが、間近に迫った林間学校の為にとリュックサックや登山用の靴を持ってきてくださった。
「うちにあるのに間違えて買ってしまって・・・」
ということだったけれど、それは明らかな嘘だった。その友達は大変小柄でしたから。
学用品や身の回りのものを届けてくださった方もいた。

子供ながらに、それはとても嬉しい事だった。もちろん、物をいただく事ではなく、そのお気持ちが。何より、その後の自分にとってこんなにも良いお手本はなかったと思う。思い遣る気持ち、それを形にする勇気と気遣い。
私は、火事の為に大切な家族も思い出の品も大好きなピアノも全て失ったけれど、とても大切な事も教えていただいた。それは一生の宝物となった。

その後、私たち家族は2カ月ほど父の事務所で生活した後、市内に建築中だった家に引っ越した。
新しい家は父が思い通りに設計したので、自分の部屋も使い勝手がよく、大変嬉しかったけれど、祖父の為に用意された部屋に誰もいない事が、寂しさを募らせた。