コーヒーとミルクってさ、スプーンでかき混ぜなくても、勝手に混ざるんだよ。
どうしてだと思う?これはね、分子のブラウン運動が・・・」
褐色のコーヒーの中へと、ミルクの白い渦巻きが静かに消えていくのをじっと見つめながら、私は、彼の声がだんだんと遠くなっていくような気がしていた。
バイト先が一緒で、帰りが遅くなると時々送ってくれたタカシと付き合うようになったのは、20歳になるちょっと前のことだった。
物理学を専攻している彼の部屋には、日文科の私にはさっぱりわからない専門書がたくさんあったけれど、それ以上に文庫本が書棚にぎっしりと並び、さらには、机の横にも山のように本が積んであった。「星新一が好きなんだ」と話す彼だったが、ニーチェやサルトルなどの哲学書も幾冊も置いてあった。
私は、休みといえばそのタカシの部屋で、壁にもたれながらこの部屋の本を読んでいた。時折顔を上げては、やはり本を開いている彼の横顔を見つめた。眼鏡の奥の優しい瞳が好きだった。
彼の好きな「ブランデンブルグ協奏曲」を聴きながら、一日そうして過ごした。
付き合い始めて二年が過ぎようという頃、「結婚」の言葉が二人の会話に登場するようになった。互いの両親にも会い、タカシの就職も決まり、私はまだ学生だったけれど、二人の人生はこれからずっと一緒なんだと、私たちも周囲もそう信じて疑わなかった。
しかし、タカシが就職し、結婚話も具体的になってきた頃。
私は、彼の言葉に違和感を覚えるようになった。
彼の勤務していた某企業の研究所は、個々の研究に没頭出来るようにと、非常に自由に合理的に過ごすことが許されているらしかった。彼には、それが社会の基準、あるべき姿と映ったようだった。
「人に頭を下げてまで仕事をするなんて、考えられないね」
相変わらず眼鏡の奥の彼の瞳は優しかったけれど、私には、その言葉を聞き流すことは出来なかった。しばらく、逡巡する日々が続いた。
その日、私は、タカシの淹れてくれたコーヒーを飲みながら、別れを切り出した。
