10日ほど前に訪ねた紫陽花寺を再び訪ねましたが、

場所と種類にもよりますが、まだ五分咲きくらいですかねぇ…。

 

空だけは真っ蒼に染まり、梅雨明けのよう…まだ、梅雨入りしていませんが(-_-;)

 

紫陽花を撮りながら、いろんなことが思い出されました。

不思議です、紫陽花とは何の関係もないことが次々と浮かびました…。

 

 

 

結婚して、幼いながらも子供のいた、ある日のこと。

私が仕事から帰宅すると、頬を上気させた母が話しかけてきました。

 

「明日、おねえちゃん(私の姉)と、新潟へ行ってくるわ!」

 

新潟県には我が家の本家があり、夫君の実家もあり、「そう」と軽い返事を返したものの、何しに行くのかしら?と再度、母の方を振り向くと、やや興奮気味の母がメモ帳を手にしたまま、説明を始めた。

 

「ずっと調べてもらっていたのよ、私の実の母…生みの母が新潟にいるらしいって聞いたから。そうしたらね、シバタにいるってわかったの!」

母は声を上ずらせて話し始めた。

 

母の生みの母は私の知る祖母ではないことは、二十歳ぐらいだったか、学生の頃に父から知らされていた。

母の祖父は偉ぶった、大変厳格なひとだったそうで、元気のよい嫁に大変厳しかったらしい。そんな舅のいじめに、ちょっと脅かしてやろうと、一日、子どもを置いて外出したところ、舅の逆鱗に触れ「二度土と敷居は跨がせない!」と、家を追われてしまったそうだ。

まだよちよち歩きの叔父、三歳ほどの母、そして国民学校へ上がったばかりの伯父の三人の子供たちはその日から、「お母さんは、お前たちを捨てて家を出て行った」と聞かされて育ったらしい。

 

その後、当時家政婦として家にいた女性が後妻となったが、それが私の知る「おばあちゃん」であった。

 

幼かった記憶の中にも、その生みの母は色白で美しい面立ちであったと、後に母からも話を聴いた。

それでも、育ててもらった育ての母にも遠慮があり、今、どこにいるのか?とか、どんな人なのか?などど、生みの母に関することは気がかりではあるものの、口に出すことはできなかったらしい。

 

それから何十年過ぎたのだろうか、育ての母を見送った後に母は、生みの母の所在を調べてもらうように依頼したという。

 

その結果が来た、と母は話す。

その人は今、シバタにいて、その後再婚した男性との間に男の子がひとりいて、母の長女(私の姉)よりも、僅かにひとつふたつ、年上だという。

やや興奮気味の母は、その長女の運転でシバタにいき、その女性と、その年の離れた弟に会ってくる…と、既にそれは相談でなく報告で、私はひとこと、「どうぞ」とだけ返事をした。

 

そして翌日、早朝からシバタへと車を走らせ、ほぼ初めましての再会を果たした母は、興奮したままに帰宅した。

 

残念ながらその女性は認知症で、半年ほど前からは、ずっと面倒をみてくれている息子の事すら、もうわからなくなっていたという。きっと、車中でどんな挨拶をしようかとあれこれ考えていただろう母の衝撃は如何ばかりかと…日頃、母に反抗的な私も、流石に母がかわいそうに思えた。

 

ただ、「わからなくなっていたけれど、キレイなひとだったよ。」と、母は嬉しそうに話し、そして、年の離れた弟の横顔は、千葉に住む実の弟のそれにそっくりだとも、繰り返し話してくれた。

 

結局その数年後、ヘルパーとして認知症患者さんのお世話をしていた母も、自身、認知症を発症、姉のことは分かるが私(母の二女)のことは知らないと、残酷な言葉を発する認知症患者となった。

 

 

親子って不思議な関係だ。精子と卵子が出会う確率は1000憶分の1と聞いた。

この世に生を受けた子と母が出会うのはものすごい確率の中で、やっと叶う出会い。

そんな奇跡の中で、更に何十年と言う時を経ての再会なんて、もうゼロに等しい確率であろう。

母と私の出会いの確率だって、十分に天文学的な数字のわけで、あの時、

「良かったね、会えて」

と声を掛けてあげればよかったな、と後悔するが、認知症の母も3年前に他界した。

 

今こそやっと、母はそっくりだという実母に会えて、積年の話をしてるのかもしれない。