先日、日記のコメント欄で書いていただいた言葉を思い出しました。
「病気で体の自由がなく断続的に苦しい。治る見込みはないがあと20年生きられる」
「健康で自由だがあと10年で死ぬ」
コメントを書いてくださった方は後者を選ぶし、多くの人がそうするだろう、とのご意見でした。
ところが現実に「健康で自由な10年も選べる」という形で選択肢が現れることはほとんどなく、多くは次のようなことになると思います。
「病気で体の自由がなく、断続または連続で苦しい。治る見込みはないが当面は生きられる。当面の期間は、病状や医療の状況により、数時間かもしれないし数十年かもしれない。今死ぬか、当面生きるか自分で選べ。場合によっては親族が選べ」
私の場合は次のようになります。二択で言うところの結論は棚上げです。
「苦しみの強さや、間隔による。もしかすると苦しみの合間に、不自由ながらも何かができて、生きている方が楽しいかもしれない。あるいは、つかの間の楽しみを差し引いても、死んだほうがましかもしれない。両者の優劣は、その時の自分にしかわからない。選択の機会は他人に渡さない」
なんでこんなことを考えたかというと、「なんで私だけ仕事の苦労が多いんだ」と悩んでいた矢先に「この子は生まれてきても病気で苦労するから、産むのを諦めた」という、お母さん(になるはずだった方)の記事を読んでしまったからなのでした。
仕事と病気とでは苦労の種類が全く違うし、ご両親も真剣に考えた上で苦渋の選択をされたのだと思いますが、なぜか苦労という言葉が今の私にピッタリはまり、あたかも件の胎児になったような気持ちで次のようなことを考えたのでした。
「苦労はしたかもしれないが、憂さ晴らしもいろいろしている。憂さ晴らしに大して効果はないが、そのために生きていると言ってもよい。そこに追い打ちをかけてとどめを刺し、灰にしてしまうなんてひどい話だ」
私は親としての苦労を知らないし、これから親になる見込みもほとんどありません。まして、重い病気を抱えた胎児がこれからできそうな憂さ晴らしや、意思表示の方法は、全く想像がつきません。「仕事で苦労できるほど健康なら、病気の胎児とは苦労の桁が違うよ」という考えもできます。
だから実はこんな私の方がずっと無知で不謹慎なのですが、今は意見を撤回できそうになく、コメントを下さった方と、胎児のご両親と、世間様に対しては、平謝りするしかないのでした。
辛気臭くなってしまった…
実は最近新たな憂さ晴らしを見つけたのですが、習得するのに大変苦労しているので、その苦労を癒すための憂さ晴らしをさらに考えたいと思います。合掌